てやんでぇ 第17回 学問書
作 文聞亭笑一
先週の放送は出演者の対談か雑談かで・・・早々にTVのSWを切りました。
昨年の「光る君」もそうでしたが、ああいう企画が受けるのでしょうか?
出演者がドラマのキャラを離れて舞台の裏話に興じる・・・なんとなく、マスタベーション・・・。
筋書きに誘発されて・・・の話題がないので1779年という源内先生の命日を中心に、その頃の日本史、学問の世界を振り返ってみようと思います。
蘭学・・・科学思想の流入
源内先生が長崎からエレキテル(静電気発生装置)を持ち込んできました。
冬場に化繊のセータなどを着ているとドアの取っ手で「バチン」と来るアレのことですが、当時の日本人にとっては摩訶不思議な現象でした。
初体験ではビックリしますから「万病に効く」と言われたら信じてしまいますね。
エレキテルは手品の仕掛けのようなものでしたが、医師の杉田玄白達が西洋医学の「ターヘル・アナトミア」を翻訳した「解体新書」は、それまでの医学知識をひっくり返すような大発見でした。
人体は各種機関、部品を組み合わせた多角的、総合的構造物である・・・と言うのは・・・果たしてどれだけの人が理解できたでしょうか。
科学の基礎は分析です。
物事を分けて区別し、更に分けて区分し、・・・留まるところを知らず分けて、分けて、細胞レベルから遺伝子レベルにまで分けてしまいます。
尺、寸がセンチcm、ミリmm,ミクロンμ、そしてナノまで「分けて分」「折って析」分析・・・粉々に砕いていきます。
解体新書はそこまでは行きませんが、口から入ったのもが食道を通り、胃に入り、十二指腸、小腸、大腸、直腸、肛門から排出されるというプロセスを説明しています。
漢方では「心の臓」など臓器の存在は理解していましたが消化のプロセスまでは思い及ばなかったようです。
この解体新書が発刊されたのが1774年です。源内が死ぬ5年前ですね。
解体新書の出版も版画ですが、あの繊細な図形を版画に彫る・・・信じられないほど繊細な技術ですね。
職人技とは言え・・・芸術の域だと思います。
手先の不器用な文聞亭には信じられません。
古事記伝
蔦重が発行する書物は小説、画集、漫画、雑誌、週刊誌の類いですが、真面目な本も沢山発行されています。
この時期、画期的な出版物として敢行されたのが本居宣長の「古事記伝」でした。
1763年から1798年まで、35年間かけた労作ですが、これが日本史の「原本」となって「日本らしさ」のモデルにもなりました。
神話の世界を解きほぐして日本国の原点に迫る・・・という作業ですが、古事記という文字情報だけに頼り、考古学的考察が全く入っていないところが?ですが、歴史学者は古事記伝を基本として推論を組み立てます。
本居宣長の恥俣野は国学という思想ですね。
この思想は「道」という概念を作り、茶道、書道、柔道、剣道、・・・道学という宗教的思想の原点にもなっているようです。
さて、来週の放送を待ちましょう。どういう展開になるでしょうか?
東海道五十三次絵図17 興津
愚痴を由比だす 薩埵坂
ばからしや 絡んだ口説きも
興津川 こちゃ だまして
寝かして恋の坂
こちゃえ こちゃええ
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京に向かう客よりも・・・明日峠を越えるという、東に向かう客の宿だったでしょうね。
女郎を口説いたり、欺したり、寝かしたり・・・一夜の恋を楽しんだ場所かも知れません。
五十三次図は興津川を蓮台で渡っていますが、金持ちの道楽でしょう。
それほどの大河ではありませんから一般客は歩いて渡河します。
興津の地名は、この地にあった宗像神社が起源のようです。
宗像神社と云えば北九州、宗像大社の流れになります。
古代に朝鮮との貿易を支配した安曇族にまつわる神様ですね。
北九州の宗像⇒中津島⇒沖の島⇒対馬
古代の貿易商人・安曇族の海の道です。
出雲国譲り、ヤマト朝廷の九州征伐で本拠地を追われた安曇族が糸魚川から安曇へ、諏訪へ、そして伊豆や駿河に逃れてきたという歴史ロマンの説話も残ります。
信州方言の「ずら弁」・・・「そうずら」「いくずら」「ダメずら」は伊豆、駿河にも残ります。
宗像大社と云えば女神・三姉妹が祭神です。
そしてその分社が、平清盛が創設した厳島神社です。
厳島は本家・九州の宗像を差し置いて世界遺産になってしまいました。
が、宗像神社の創建時は厳島同様に海に面した港町の神社だったと思われます。
現在は海岸線が後退して陸に上がってしまいましたが元々は海に接していたと思われます。
その事は大分の宇佐八幡宮も同様で、元々の立地である海から遠ざかってしまいました。
次の宿場「江尻」 清水は中世から現代にかけて重要な港町です。
宗像海人族の落人、安曇族の末裔達が築いてきた港町かも知れません。
大和建国前後の古代史に思いを馳せます。
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