てやんでぇ 第25回 浅間山噴火

作 文聞亭笑一

蔦屋の日本橋進出へ・・・吉原・忘八の旦那衆が総動員とは、ケンカの火に油を注ぐような物ですね。

そんなことが実際にあったとは思えませんが、まぁ娯楽番組の筋書きとしては面白い。

先日、月例の短歌会には狂歌的な一首を投稿しておきました。

江戸ことば 駄洒落飛び交う「べらぼう」は 大河云うよりドタバタ喜劇

松前藩・・・とは

先週は北海道、蝦夷地に関して調べてみましたが、その蝦夷地を一手に引き受けて中央には利権を隠蔽し、植民地的巨利を得ていた松前藩について考えてきます。

藩主役を童顔のえなりかずきが演じていますが、やっていたことは相当な悪ですから・・・ちょっとイメージが合いません。

松前藩が歴史に登場するのは戦国末期です。

津軽の安東家の家臣で、下北半島の郷士だった蠣崎氏が海を渡り、安東家の代官のような形で蝦夷地の開拓を始めます。

現地のアイヌをてなづけていきます。

本土からは米、蝦夷からは海産物・・・とりわけ酒は巨利を産みました。

酒の味を知ってしまったアイヌ・・・アイヌにとっては麻薬のような存在になっていきます。

蝦夷代官の蠣崎5代目の時、本家に無断で聚楽邸に参上し、秀吉から民部大輔の官位を貰い、独立してしまいます。

その後、志摩守に任ぜられ、蝦夷島交易独占の朱印状をもらいます。

そして秀吉が死ぬと早速に家康によしみを通じて蝦夷の独占権を確保します。

この時に姓を蠣崎⇒松前に代えています。

松前、蝦夷では米が採れませんから「一万石以上」という大名の基準に当てはまらないのですが、「蝦夷島主」という立場で大名格になります。

同様なのが壱岐、隠岐、佐渡、淡路などの島主ですね。

「国」として認知されています。

徳川幕府は・・・初代・家康の頃は外国かぶれの信長の影響を受け、かつ秀吉の朝鮮出兵の失敗経験を参考にして、外交に関して敏感でした。三浦按針(ウイリアム・アダムス)などを参謀として外交戦略も実行していました。

3代・家光の時に起きた島原の乱、これでキリスト教の恐ろしさ、ヨーロッパの植民地戦略の脅威を知ります。

防衛のためのキリシタン禁令と鎖国に入ります。

これが平和と、停滞を生みました。

良かったのか、悪かったのか、・・・標準的な答えは、出ていませんね。

蝦夷の上地(領地召し上げ)

田沼親子の蝦夷地開拓、ロシアとの交易政策を進めるためには「松前藩から蝦夷地での交易の独占権を取り上げる」という打ち手が必須だったようですね。

息子の意知が色仕掛けで松前藩に揺さぶりを掛けます。

実際にそういうことがあったのか? 所詮は推論、小説家の世界です。

実際に函館が上地されたのは1854年です。

蔦重物語の70年後ですね。

ペリー艦隊の砲艦外交に脅されて日米和親条約を結び、下田と函館の開港となります。

函館を召し上げる代わりに、松前藩に与えられた領地は福島県伊達郡、山形県東根、尾花沢の3カ所の飛び地、合わせて3万石でした。

松前を始め渡島半島は米の採れない領地もありますから大名家としては中クラスの家格となって幕末へと向かいます。

浅間山大噴火

浅間山は富士火山帯に属する活火山で、太平洋プレートとフィリピン海プレートがせめぎ合うその圧力で発生するマグマの溜まり場です。

数年前に同系統の御嶽山が爆発しましたが、箱根山、富士山、八ヶ岳などと並んで・・・地球の割れ目に位置します。

1783年、浅間山が動きます。

4月に始まった噴火活動は大小くり返しながら火山灰を吹き上げ、溶岩を流し、堆積物を利根川沿岸の地域にうずたかく積み上げていきました。

そのまま固まってくれれば鹿児島のシラス台地同様だったのですが、最大の噴火を起こしたのが8月です。

噴火音と震動が京大阪まで伝わったと云いますから、震度7クラスの大地震も同時に起きたのでしょう。

浅間山の観光名所「鬼押し出し」はこの時の溶岩流の痕跡です。

溶岩だけではなく、火砕流も傾斜を駆け下ります。

それよりも、それまでに積み上げられていた火山灰が噴火地震の揺れで雪崩現象を起こしました。

日本のポンペイ・・・などとも言われる鎌原村はこの雪崩に埋められて一瞬で消滅してしまいました。

埋められた家屋は火砕流なら熱で燃えますが、火山灰の雪崩(常温)ですから、人も、道具もそのまま残っていました。

村民600人の内、500人が犠牲になりました。

更になだれ落ちた灰は河川へと流れ込み、河川をせき止めます。

火山灰のダムです。

そんな物が利根川源流の水量を支えられるはずがありません。

ダムの決壊から鉄砲水、山津波が下流の村々を襲います。

雨も降らぬのに大洪水、上流で被災した人や馬の死骸が江戸川や銚子辺りまで流れ着いたと記録されています。

・・・と、これは一時的な被害ですが、この爆発が天明の大飢饉と呼ばれる大災害を引き起こします。

この時、太陽の黒点の異変、地球の活動期か、浅間山だけではなくアイスランドのラキ火山も大爆発、大噴火を起こします。

北半球の表と裏で大量の火山灰が吹き上げられ、それが偏西風によって拡散されます。

火山灰が太陽光を遮断します。

植物には大災害、光合成ができません。

稲も、麦も、穀物のすべてが凶作になります。

物価の高騰・・・飢饉 人類最悪のシナリオです。

・・・と、こういう影響が出るのは半年、一年後です。8月の大爆発ですから今年の米は採れます。

「来年はヤバイ、不作だ」と百姓達は肌で知っています。

「今年の米を買い占めれば儲かる」米問屋、仲買などの商人も知っています。

それがわからないのがお役人様、武士です。

仲買、米商人の誘いに応じて備蓄米まで放出してしまう大名家が数多ありました。

備蓄米は飢饉の備えです。

伊達政宗などは「一年分は蓄えよ」と云っていましたが・・・その末裔の仙台藩を中心に「財政再建に米を高値で売ろう」と言う政策が流行りになって、大量の米が大阪の米問屋の藏に集まりました。

翌年、収量は平年の5割にも達しません。

米の値段は高騰しますが、米問屋はさらなる値上がりを仕掛けて市場に出しません。

現代の米騒動と同じです。

産地では役人による強制的な税の取り立てで、百姓が飢饉に陥ります。

都市では高い米が買えず、更には絶対量が不足して餓死者が出ます。

こういう時こそ備蓄米を放出して「炊き出し」をするのが政治家ですが、備蓄米をお金ほしさに商人に渡してしまいましたから、自分も米を買えずに苦しみます。

投機商人・・・腹が立つ悪党ですが、法律にも商売マナーにも違反していません。

「不足すれば値が上がる、余れば安くなる」当然の原理です。が、人殺しをしてまでは・・・???

東海道五十三次絵図 25 日坂

小夜の中山 夜泣き石 日坂の

名物わらびの 餅を焼く

   こちゃ 急いで通れや 掛川へ

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牧ノ原台地を越えていく道筋は東海道でも難所の一つです。

小夜の中山などと言われますが、峠には夜泣き石伝説が残っています。

上記の絵にも旅人が石を見ていますね。

夜泣き石伝説  曲亭馬琴の「石言遺響」

この辺りに住むお石という女がいた。

お石は働き者で、臨月を迎えても峠を越えて働いていた。

お石が麓で働いて帰る途中で陣痛が起きてしまった。

通りかかった男が手当てをしてくれたが、その男はお石が金を持っていることに気づき、お石を斬り殺して金を奪い、逃げてしまった。

お石の霊は近くにあった丸石に乗り移り、毎夜泣いたという。

お石は最後の力で男の子を産み落とした。

その子は近くの久延寺の和尚に発見され音八と名付けられて成長した。

音八は大和国に出て刀研ぎ師になった。

めきめき腕を上げ、評判の研ぎ師になった。

ある日、刃こぼれした刀を研いでくれという客が来た。

刃こぼれの訳を聞くと駿河で妊婦を斬ったときに側の石に刃が当たってしまったのだという。

「母の仇・・・」と音八はその男を討ち取ったという。

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現在は道の脇に移されていますが、当時は街道をふさぐように据わっていたようですね。

作者の曲亭馬琴は「南総里見八犬伝」を書いた人気作家です。

日坂宿は由比、丸子と並んで東海道の宿場では最も小さな宿場の一つですが、峠越えの難所と言うこともあり、足を停める客が多かったようです。

有名なのが歌にもあるわらび餅で、茶を飲みながら餅を食いひと休みでしょうか。

現在もわらび餅で営業を続けている橘屋の言い伝えには、家康もこの峠でわらび餅を食したと云います。

「16娘の乳房のようじゃ」などと冗談を言って山内一豊と大笑いをしたとか言う話も残ります。

その話からわらび餅とも笑い餅とも云うのだとか・・・。