てやんでぇ 第35回 文武二道
作 文聞亭笑一
先週の番組で出てきた歌麿の処女作「花と虫」の絵ですが、これを「奢侈禁止令」施行下にもかかわらず、豪華版狂歌集として出版したのが蔦重です。
歌麿はこれまでにも随分と絵を描いてきましたが、先輩の描いたものを写本することが多く、自らの創作と言えるのは「画本・虫撰み」と銘打った狂歌集に仕立てました。
色使い、紙質などが上物を使い、装丁も凝った作りに名っていますから贅沢と美術品の境目すれすれ・・・ですね。
「禁止令」の崖っぷちみたいなところを狙います。
それが蔦重の松平定信へのささやかな抵抗ですね。
写真は冒頭のページ、一枚目の絵です。
写真
蔦の葉に毛虫がたかり、蔓の先には足長蜂が巣をかけています。そして狂歌が二首添えられています。
蜂・・・尻焼猿人(しりやけのさるんど)
こはごはに とる蜂の巣のあなにえや うましをとめをみつのあぢはひ
蜂の巣を獲って巣の穴から幼虫を採り食べる・・・蛋白源ですね。
現在では信州などでしか食べませんが、いわゆる「蜂の子」です。あなにえ・・・穴にゐる虫・・・でしょうね。
そういう珍味の美味さと、うましをとめ・・・「いい女をモノにする」をかけた歌にしています。
毛虫・・・四方赤良(よものあから) =大田南畝
毛をふいて きずやもとめん さしつけて きみがあたりに はひかかりなば
毛虫にも色々いますが、茶毒蛾の類いは毒害が大きく、毛に触っただけで毒が皮膚に移り猛烈な痒み、痛みに襲われます。
きみのそばへと毛虫が這い寄っていく、息を吹きかけて毛を飛ばしてやろうか
きみ・・・とは誰でしょうか。
嫌な政治家か? 愛しい花魁か?
こんな調子で虫の絵に二首ずつの狂歌が載った冊子で、上下2冊です。
序文を書いたのは
上巻・・・撰者の宿屋飯盛 下巻・・・歌麿の絵の師匠 鳥山石燕です。
蜂、毛虫という嫌われ者が冒頭に来る・・・ここに蔦重の批判精神が盛り込まれます。
「NHK大河ドラマ ブログ」を検索するとすべての絵と狂歌が閲覧できます。
狂歌の意味など考えながら読むと・・・かなりな暇つぶしになりますね(笑)
寛政の改革(松平定信の改革)
田沼政治・・・重商主義から農本主義へと回帰を計りますが、商業資本で肥大化した経済を米本位のレベルに引き下げることはできません。
田沼経済を続けるしかありませんが、幕府の財政支出は極限まで絞ることにしました。
財政投融資の削減はもちろんのこと、大奥、御三卿などへ経費削減、倹約令が求められます。
「将軍の父・俺だけは別」と思っていた一橋治済などは驚きます。
しかし、例外なく倹約令が施行され、風紀の取り締まりも強化されていきます。
定信が力を入れたのは武士層、旗本・御家人への「文武奨励策」でした。
太平の世だと・・・遊んでばかりおらず、武術の鍛錬をせよ。
学問を積み、幕府に役立つ人材となれ
至極当たり前ではありますが・・・「何を今更・・・」というのが大方の旗本、御家人でしたし、大名家の家臣たちは「幕府のやる事、オラたちカンケーねぇ」といった雰囲気ですね。
ですから前回の番組でも幕臣の大田南畝はピリピリしていましたが、外様・秋田佐竹藩の喜三二や、譜代・小島藩の春町などはお気楽ムードでした。
しかし、定信は着実に改革を進めます。
昌平坂学問所(東大の前身)を拡充し、更に武術振興にと「御前試合」を定期的に催行して、優秀な者から役職に就けるなど 賄賂額⇒文武の実力
という価値観の変更を明らかにしていきます。
都市住民に「帰農令」を出します。
近郊から江戸に逃げてきた元農民を国許に戻します。
そう、強制送還ですね。
トランプさんが移民に対処していることと同じです。
さらに、大名には「囲い米」の制度を施行します。
石高1万石に付き毎年50石を備蓄に回せというもので備蓄米を法制度にしました。
そして町会所という備蓄米の売買を行う機関を作って、米相場の安定を図ります。
さらに、後のことですが長谷川平蔵の提案で人足寄場(=職業訓練所)を作り、町から失業者をなくす政策を打ちます。
こう見ると・・・良いことずくめなのですが、「自由」の雰囲気に浸かってきた国民には
世の中に かほどうるさきものはなし ぶんぶぶんぶと夜も寝られず
かほど・・・これほど/蚊ほど ぶんぶ・・・文武/ブンブ(羽音)
取り調べを受けて大田南畝は「自分の作ではない」と云っていましたが・・・定信の失脚後には自作だと認めていますね。
白河の 清き水にも棲みかねて 元の濁りの田沼恋しき
も同様に南畝の作だと言われます。
ただ、この時期・・・目付に睨まれていた南畝は蔦重の仲間からは距離を置き、ペンネームも四方赤良ではなく蜀山人と名乗り、当たり障りない歌を詠みます。
蔦重の抵抗運動
出版物に幕府の検閲が入り、取り締まりが強化される中で蔦重の政道批判というか、世情風刺の意欲が高まります。
アウトとセーフのギリギリのところで黄表紙の出版を続けます。
まずは喜三二が「文武二道万石通」を描きます。
鎌倉時代に舞台を移し、遊び呆けていた武士が「文武奨励」の掛け声に押されて・・・
さぁ、頑張ろうと武道を始めるのだが・・・
弓ではあらぬ方向に誤射し大騒ぎ、
刀では自分でタンコブを作り、
馬術では乗馬しようとして馬から落ちて・・・
学問でも同様にヘマばかり
恋川春町は「鸚鵡返し文武二道」
舞台は鎌倉時代の京都、主役は源義経 帝の命で文武奨励をすることになり、義経が人々を指導するのだが・・・思いがけぬことばかり。
教え子が暴走して・・・さぁ大変
東海道五十三次絵図 36 赤坂
お前と白須賀二川の吉田屋の
二階の隅で はつの御油
こちゃ お顔は赤坂
写真
吉田、御油、赤坂の三宿は比較的短距離に並んでいました。
御油と赤坂の間は特に短く1,74kmしかありません。
その短さを時間軸とかけて詠んだ芭蕉の句があります。
夏の月 御油より出でて 赤坂や
夏の夜の短さと、宿場間の短さを皮肉るような句にしています。
いずれの宿場も飯盛女が多いことで有名で、宿場と云うより歓楽街と言った風情でした。
飯盛女は宿場女郎とも云います。
いわゆる仲居さんですが、春も売るといった役割で、吉原などと同様に公認されていました。
当時の繁盛ぶりを歌った俗謡に
御油や赤坂、吉田がなけりゃ、
なんのよしみで江戸通い
があります。
江戸との往復の中間点で「息抜き」の場所でしょうか。
図
広重の絵にあるソテツですが、写真の旅籠「大橋屋」の中庭にあったものです。
現在も近くのお寺に移植されて元気なようです。
鉄道悲哀
赤坂宿も児湯宿も、明治の鉄道敷設以来寂れていきました。
東海道にはそういう宿場町が数多くありますが煙公害などで宿場が鉄道を嫌った・・・という伝説があちこちに残りますが、その殆どはコジツケのようです。
実際は、御油、赤坂を通るルートは勾配が16°ときつく、傾斜の緩い(10°)蒲郡経由に変更されたようです。
事実、鉄道反対運動などは全く行われていませんでした。
悔し紛れに「鉄道なんか要らねぇ」と突っ張ったのでしょうが、客が来なくなれば宿場は潰れます。
図