てやんでぇ 第37回 曖昧模糊

作 文聞亭笑一

先週は恋川春町先生の切腹シーンでしたが・・・介錯人に首を斬ってもらえない切腹というのは大変なことです。

最終的には臓器不全と出血多量で死に至るのですが・・・時間がかかります。

痛みに耐えなくてはなりません。

ですから、腹を切った後は刀を首筋に当てて頸動脈を切断して死にますが、そこまでできるのはかなりの体力と武術の修行が要りますね。

どちらかと言えばヤワな・・・春町先生にそれができたかどうか? 

疑問符が付きますが「お家のために切腹」とすれば、対外的には強いアピールになります。

幕府も小島藩に制裁を加えるわけにもいかないでしょう。

切腹したのか、服毒自殺か、それとも生来の気の弱さから懊悩して食欲不振に陥り衰弱死したのか・・・どこにも記録はありません。

小島藩と春町

恋川春町・・・本名;倉橋寿平が仕えた小島藩の藩主は岡崎以来の松平一族です。

家康が徳川を名乗る前からの親戚筋ですね。

滝脇松平と呼ばれます。

小島藩の所在地を探すのに時間がかかりましたが、静岡の東の入口、薩埵峠の近く興津川の上流でした。

薩埵峠は東海道の難関の一つでもありますが峠の東側が由比の宿場、西側が興津の宿場です。

宿場は天領(幕府直轄地)ですが、興津川の上流辺りが小島藩の領地でしたね。

藩士が100人ほどの中企業です。

春町の役職は「留守居添え役」となっていますから、藩主が参勤交代で国許に帰っている間は、江戸町支店長・・・幕府への窓口責任者ですね。

役割としては佐竹藩の江戸留守居役であった朋誠堂喜三二と同等です。

どちらも社用族・・・田沼時代のバブル期の寵児でした。

バブル期に「ゴルフと宴席が仕事」だった方もいますが・・・良い時代でしたねぇ。

春町が仕えた滝脇松平と倉橋家のつながりは、父の代から始まった新参藩士でした。

紀州藩士だった父親がスカウトされて小島藩、滝脇松平の経営参謀のような地位に就きます。

なにしろ当時の小島藩は7千両もの借金を抱えた借金地獄に陥っていて、経済対策を最重視しなくてはならない局面でした。

春町が父の後を継いだころには破産、改易の危機は去っていました。

ドラマの中では藩主と身近に会話していましたが、従業員100人の会社では当然の間柄ですね。

取締役営業部長兼江戸支店長・・・といった肩書きだったと思います。

それにしても・・・今年の大河はチョイ役で面白い人材を使います。

小島藩主・松平某は落語家の林家正蔵でした。

林家三平の息子ですね。

奢侈禁止令

贅沢を禁止する、風紀を乱すものを取り締まる・・・いずれも、判断基準が曖昧ですから実に難しい政策です。

松平定信がこの禁止令をどの範囲で適用しようとしていたのか・・・それも曖昧なうちに市井の施政にまで拡散してしまいました。

町奉行の判断基準ならまだしも、与力、同心、・・・町の親分・岡っ引きの判断基準となればバラバラです。

定信が意図したのはまずは大奥です。

湯水の如く公費を乱用していました。

御三卿の一橋治済も然り、将軍・家斉も次々と妻妾を抱えて大奥の経費を使います。

側室を一人増やすと、その取り巻きを20人ほど増員することになります。

さらに、側室の実家への加増だとか、町人出身だと支度金だとか、結納金だとか百両、千両の単位で幕府の資金が流出します。

現代で云えば、経営を預かる専務が「経費削減」を叫び、自ら事業所の電灯を消し回っているのに・・・若社長は銀座や祇園のママさんに注ぎ込んで遊び回っているという姿でしょうね。

従業員からみれば「バカバカしい、やってられねぇよ」という心情でしょう。

ただ、大奥の実態というのは幕府の中枢しかわかっていません。

外様大名や旗本達には見えない世界ですから当初は・・・当初は見えません。

だから・・・禁止令に従います。

改革を推進する定信にとって、最初から最後まで・・・将軍と大奥が最大の癌細胞でしたね。

家斉の性欲は留まるところを知らず、大奥従業員は増加の一途を辿ります。

さらに、家斉の子どもたちの養子縁組のために、諸大名との交際費が・・・いや増します。

定信の改革を失敗に導いた第一の原因は将軍・家斉の女好きと大奥でした。

風紀粛正

風紀・・・こんな曖昧な基準はありませんね。

対象範囲が広すぎますし、法律にするには定量化できない物ばかりです。例えば「高価な香水を使ってはならぬ」という禁令が出たとします。

高価とはナンボ以上か・・・これは定量化できます。

買わずに、もらった香水はどうなるでしょう。

しかも、香水には好みがあります。

好き嫌いがありますから贅沢か、倹約かわかりません。

服装などに至ってはデザイン次第で、派手にも地味にもなります。基準など作りようがありません。

工場など作業着や制服が基本の職場は管理が楽ですが、営業などの服装自由な職場では時にドキンとさせられることもありました。

キャミソールというファッションが流行った時期がありました。

まさに下着ルックでしたね。

これで職場に出てきた協力会社の女子社員がいて・・・困惑させられましたねぇ。

風紀だとか、倫理だとか・・・多分に宗教的です。

前記のキャミソールなど、イスラム原理主義の国に行ったらとんでもない破戒行為ですよね。

即刻、強制隔離でしょう。

それを・・・定信はあえてやろうとします。

出版統制です。

黄表紙などの風刺ものが取り締まりの対象になりました。

「ご政道を批判した」というのが絶版にされる理由ですから狂歌なども危なくなります。

大田南畝の

白河の 清き水にも住みかねて 元の濁りの田沼恋しき

が、どの時点での作品か不明ですが、「物いわば 唇寒し 秋の風」と闇の世界で流通することになります。

ともかく・・・自由を束縛したことで、改革は庶民を敵に回すことになります。

京伝と蔦重

黄表紙作家の恋川春町が世を去り、朋誠堂喜三二が筆を折り、狂歌の元締め大田南畝も表だった執筆活動を停止します。

が、そういうお上の締め付けが強化されるほどに反骨魂を沸き発てるのが蔦重で、その相棒として乗りの良いのが山東京伝でした。

黄表紙ではなく「洒落本」という分野で、相変わらずの世相風刺を続けます。

どうなるか・・・? そこいらが・・・次の回の放映ではないでしょうか。

東海道五十三次絵図 38 岡崎

岡崎女郎衆は ちん池鯉鮒

よく揃い鳴海絞は 宮の舟

こちゃ 焼き蛤を ちょいと桑名

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矢作川を大名行列が渡っています。

奥の方に岡崎城が描かれていますから西からの入り口ですね。

そのお城・・・神君家康が生まれた場所ですからさぞかし立派・・・と思いきや、三層の小さな天守閣が建ちます。

家康が生誕地に特別な思い出がなかったのか、築山殿、信康などとの嫌な思い出が多かったからか、それとも大きな城にしては反逆の畏れがあると危惧したのか、岡崎城主は代々5万石程度でした。

譜代大名の本多-水野-本多と城主が遍歴します。

しかも明治維新では、薩長政府から目の敵にされ、廃城令で徹底的に破壊されています。

現在の天守閣は戦後に再建されたもので、様式は松山城をモデルとした江戸期の築城技術です。

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岡崎二十七曲り

岡崎の市街地に東海道を引き込んだのは徳川関係者ではなく、秀吉の家臣として家康の関東移封後に岡崎城主となった田中吉政です。

東海道を城下に引き込んで、曲がり角を沢山作った狙いは軍事・防衛目的と商業振興です。

田中吉政は流石に近江人です。商売の道に明るい。

曲がり角を多くすれば旅人は通行しにくくなります。

一方で店の数は多く出店できます。

城下に客を長くとどめて、かつ商品の品揃えを多くして、店の特徴を競わせて、城下に金を落とさせる・・・町全体のモール化をやりました。

城主が代わっても、町人達は伝統を守りますから五十三次の宿場では、駿府(府中)に次ぎ二番目に大きな宿場に発展しました。

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