てやんでぇ 第13回 武士の懐

作 文聞亭笑一

桜が満開になるだろう・・・と、見積もって都内の桜名所の見物ツアーに出掛けたのですが、寒の戻りに災いされて5分咲きの桜見物をしてきました。

その中の一つに東京ミッドタウンという聞き慣れない場所がありましたが、調べたら毛利邸の屋敷跡を再開発した高層ビル群と、大名屋敷の面影を残す大庭園でした。

江戸の大名屋敷の広大さに感心すると同時に、山の中に屋敷地を与えられた外様大名の悲哀のようなものも感じました。

平地が殆どない傾斜地でした。

旗本株の売買

前回の放送で「座頭金による旗本株の売買」が問題視されていました。

これは実際に起きていた事件です。

鳥山検校の先代に米山検校がいます。

米山検校が亡くなり、鳥山検校が跡を継いだのが1772年ですから物語の10年前ですね。

米山検校は旗本株を幾つも乗っ取り、子孫を武士にしています。

米山検校の出生は越後・刈羽郡・・・東電の原発がある辺りです。

江戸に出て鍼医になります。

腕の良い鍼医だったのと、蓄財のセンスが良く、金融業を始めます。

彼が目を付けたのは旗本が開いている闇の賭場です。

そこで金貸しを始めます。

客は負けが込むと、頭に血が上り借金してまで金を注ぎ込んでしまいます。

借金地獄、蟻地獄に嵌まってしまった旗本から、家財を取り上げ、娘を取り上げ、ついには家督まで取り上げ・・・自分の息子・9男・平蔵を跡継ぎに送り込みます。

米山検校の息子が男谷平蔵・・・その息子が剣聖と言われた男谷信友と・・・

これまた、乗っ取った勝家に送り込んだ小吉・・・そうです、幕末のヒーローの一人、勝海舟の父親です。

「小吉の女房」などというドラマもありました。

つまり、勝海舟は米山検校の曾孫に当たります。

武士でないものが武士になり、幕末の混乱期に江戸城の無血開城を実行するという巡り合わせ、それだけ世の中が変化していた証左です。

勝海舟に江戸の火消しや博徒達が協力しますが、ある意味で当然ですね。

ヤクザ的組織の親分からみれば「我らの仲間」なのです。自分たちが政権に送り込んだ国会議員です。

将軍・家治

10代将軍・家治は「田沼に使われたバカ殿」というのが・・・松平定信が作った歴史書で、それが正しいことのように伝えられてきました。

が、家治に対しては定信の個人的恨みがかなり色濃く載った評価で、鵜呑みには出来ません。

ドラマにもあったとおり定信は田安家の次男坊です。

つまり、将軍になれる可能性があったのですが、田沼が家治将軍をそそのかして?

 白河松平家に養子に出されてしまいました。

田安家にもしものことがあった場合は田安の跡継ぎに戻す・・・という約束も反故にされ、その結果、家治の後は一橋家から家斉が将軍になってしまいます。

「本来なら俺が・・・」定信の悔しさはかなりな物だったでしょうね。

「家治将軍の馬鹿め・・・」

定信の評価とは逆に、家治はバカどころか多才な人であったようで、とりわけ絵画などは絵師顔負けの才能を発揮していたようです。

9代・家重に知的障害があったようで、家治の幼少の頃は吉宗が大御所となって政権を動かしていましたが、その脇には常に孫の家治を置いて、幕府経営の見ならいをさせていたと云います。

暴れん坊将軍、徳川中興の祖と言われる吉宗が英才教育をしていた家治がバカであるはずがありません。

家治の時代、幕府の財政はかなり逼迫していたようで、家治が絵を描いていたのも 「褒美の代わり」のためです。

「将軍様お手ずからの絵」という値打ちで、賞金や賞品の出費を避けていたとも言われます。

田沼意次を重用していたのも「経済の才能」を見込んでの話です。

殿様育ちの老中達では経済のこと、とりわけ商業資本のことなど解りません。

江戸期の経済というか、武士の年俸は石高性です。

米の値が下がり、物価が上がると武士の実質所得は激減します。

そういう基本的なことすら理解せず「倹約・倹約」と叫んでいたのが「改革」と言われる政策でした。

武士の懐勘定、家計

困窮して座頭金に手を出す武士の話がありました。

「お役に付くために賄を・・・」「お役に付けば借金など・・・」と云っていましたが・・・現代感覚で云うと・・・どういう話でしょうか。

武士の収入は先祖代々の家柄によって石高が設定されています。

いわゆる基本給でしょうか。

例えば石高300石の旗本だったとします。

自分が知行する農村の収穫量が300石だと云うことで、税率が標準の4公6民として120石が武士の収入になります。

一石一両(10万円)として年俸1200万円になります。

月の収入が100万円。

なんとなく高給サラリーマンに見えますが・・・石高によって従業員を雇う必要があります。

300石なら家臣(武士)2名、それに身の回りの世話をさせる従業員を数名雇わなくてはなりません。

家臣には家族もいますから・・・

最低で10人くらいの大家族になります。

これを年俸1200万円で賄う・・・いやはや大変です。

ただこれは基本給の話です。

このほかに職務給というか役職手当が付きます。

鬼平の長谷川家の場合、基本給は400石ですが、父親は京都町奉行になりました。

町奉行の職務給は千石です。

ですから差額の600石が役職手当として追加支給されます。

これは大きいですね。所得倍増以上です。

蓄財が出来ました。

これを、親父の遺産を吉原で派手に使ってしまったのが二代目鬼平でしたね。

だからこそ・・・人事権を持つ老中や側御用人に賂を送って、役職を買おうとします。

清廉潔癖・武士の鑑のように威張っている松平武元も、かなりの賄賂を受け取っていました。

なにはともあれ・・・給与は土地(知行)か扶持米としての米です。

知行300石の土地でも、凶作で200石の年もありますし、豊作で400石の年もあります。

200石の年には百姓は4割の80石しか納めてきません。

400石の年も300石の時と同じ120石しか納めません。

というのも、現場を見に行けないからです。

中堅クラスの旗本の知行地は大坂の陣の褒美として与えられた豊臣家の遺領である河内、和泉が多かったのです。

代官を置いて取り立てる・・・? 原価の方が高く付きますね。

さらに・・・米価を扱うのは大阪の米問屋、札差です。

豊作で相場が下がれば・・・収入はその分だけ目減りします。

あぁシンド!

東海道五十三次絵図 13 原

酒も沼津に 原つづみ 吉原の

富士の山川 白酒を

こちゃ 姐さん だしかけ蒲原へ

こちゃへ こちゃへ

写真

東海道筋では富士山がくっきりと見える地域に入ってきました。

原、吉原、蒲原・・・現代の富士市です。富士川の流れ下る周辺です。

沼津からでは愛鷹山が富士山との間に立ちはだかって景観を隠してしまいますが、原から先は絵の通りの景色になります。

右手に描かれている山が愛鷹山ですね。

富士を眺めながらの旅になります。

左手には沼津から続く千本松原の並木、そして田子の浦の船着き場があります。

原宿は、現在の区割りでは沼津市の西の外れになります。

しかし、旧国名では沼津で狩野川に流れ込む黄瀬川を境に、伊豆の国と駿河国に分かれていましたから戦国時代などは東西勢力の対決の場でもありました。

原宿の近くに興国寺城趾があります。

当時、伊勢新九郎を名乗っていた小田原・北条家の初代・早雲が今川家の家臣として、最初に預かったのが伊豆との境界にある興国寺城です。

その意味では小田原北条家の発祥の地でもあります。

早雲はこの城を根城に伊豆への工作を進め、伊豆長岡にいた鎌倉公方・茶々丸を討って、伊豆の国を奪います。

そこから・・・虎視眈々と関東進出の機会を狙います。

「道灌の目の黒いうちは関東に手出しできぬ」と早雲を嘆かせたのが戦巧者の太田道灌でしたが、扇谷上杉が疑心暗鬼から道灌の下剋上を疑い、暗殺してしまいます。

「待ってました」とばかりに、上杉家中の動揺の隙を狙って小田原に進出しましたので・・・、情報工作で上杉家中を揺さぶったのは早雲ではなかったか・・・などという推理もあります。

原の宿場町は東海道の中では小さな方で宿が25軒、本陣、脇本陣各一・・・という規模でした。

この辺りは海岸線に沿って三島、沼津、原、吉原、蒲原と宿場が続きます。

一つの宿場ですべてを賄うと言うより各宿場に分宿する形だったようです。

東の箱根峠、西の薩埵峠と難所があります。

富士山を見ながらゆるゆると歩く、そういう区間かも知れません。

原と吉原の間は駿河湾にそった海岸線ですが、海岸の千本松原とは別に東海道の両脇に松並木が続いていたと言います。

時代はずっと前の万葉集の時代になりますが、山部赤人が海上から富士を眺めました。

田子の浦ゆ うち出てみれば白妙の 富士の高嶺に雪は降りつつ

青い海原の先に白い浜と松の緑、そしてその先には霊峰富士がそそり立つ

現在でもJR東海はこの辺りから見た富士山(富士川鉄橋)を宣伝用ポスターに使います。

1500年前の万葉人も、そして現代も、日本人の心を揺さぶる風景ですね。