てやんでぇ 第32回 大御所のはずが
作 文聞亭笑一
将軍・家治の死を「暗殺」と捉えたのが今回のストーリーですが、その暗殺に使われた「醍醐」なるものが何か? 早速、調べてみました。
醍醐豆腐の事ではないでしょうか?
醍醐豆腐・・・豆腐の味噌漬けです。
豆腐を味噌と味醂を加えた漬け汁に長時間保存し、低温発酵させたチーズのような食感のものです。
テレビに映っていた「醍醐」は将に右の写真のようなものでしたね。
もう一つ「醍醐=ヨーグルト食品」という定義もありますが、こちらは液体ですからテレビ映像のものとは違ってきます。
「醍醐味」の語源となった醍醐はヨーグルト食品の方だったようです。
京都に長くいましたが「醍醐」は口にしたことがありませんでした。
写真の商品は京都ではなく、岐阜の豆腐店? 漬物屋? の商品です。
家治の暗殺に使われた毒が何であったのか・・・全くわかりません。トリカブトなどの、日本在来の即効性の毒ではありませんね。
この頃には長崎から化学系の毒も入ってきていますし、西洋医学も盛んになっていました。
家治の死因は「脚気」となっています。
田沼意次が将軍の御典医に推薦した町医者とは誰か?
「解体新書」を書いた杉田玄白であった可能性が高いと思います。
というのも田沼意次は平賀源内を隠密代わりに使っていましたし、その源内と玄白は長崎以来の親しい友人同士でした。
田沼意次と杉田玄白・・・知り合いであった可能性が高いと思います。
歴代将軍家の墓所
10代家治は上野寛永寺に埋葬されますが、徳川幕府15代の将軍の多くが寛永寺と増上寺と分割されているのも面白いですね。
日光東照宮・・・①家康
日光輪王寺・・・③家光
増上寺 ・・・②秀忠 ⑥家綱 ⑨家重 ⑫家慶 ⑬家定 ⑭家茂
寛永寺 ・・・④家綱 ⑤綱吉 ⑦家継 ⑧吉宗 ⑩家治 ⑪家斉 ⑮慶喜
③家光が尊敬する祖父・家康を神様・東照大権現に仕立て上げて東照宮に祀り、自分はそれを守護する寺である日光輪王寺を墓所にする・・・まぁ、そうですね。
さて、問題は④家綱がなぜ祖父②秀忠の増上寺に入らず寛永寺を選んだか・・・
「江戸の鬼門を守る」と比叡山から勧奨し、東叡山とした天海僧正の影響でしょうね。
増上寺と寛永寺、歴代の将軍がどういう基準で、どちらを墓所として選んだのか・・・この辺の推理も面白いですが、⑩家治が父の眠る増上寺でなく寛永寺を選んだのは、息子の家基を寛永寺に葬っていたからでしょう。
田沼失脚
浅間山の噴火以来凶事が続きます。天明の大飢饉、そして天明の大洪水・・・
誰かを悪者に仕立て上げて、幕府への批判をかわさなくてはなりません。
その生け贄が田沼・・・
「田沼の重商政策が悪の根源である」
単純明快な論理は人々を突き動かします。勢いになります。
反動政治家の掛け声で民衆は突き動かされ、思わぬ方向へと暴走を始めます。
近世ではヒトラーのナチズムが特に有名ですが、「ゼレンスキーはネオナチだ」とレッテルを貼り、勝手なことを始めた熊のプーさん(プーチン) 彼こそヒトラーの再来かも知れません。
アメリカの虎さん・・・彼にもその卦がありますね。
劇場型政治というのか・・・大衆を巻き込んで熱狂させて・・・戦いへと導いていきます。
終戦記念日に総理大臣が「反省」の言葉を口にしたとか、しないとか・・・
反省するのは当たり前で、戦争を始めるという馬鹿な決断をしてしまったプロセスは、大いに反省しなくてはいけません。
天皇が毎年「反省」する理由は、はっきりしています。
宣戦布告文書にサインしてしまったことでしょう。
当時は、旧憲法では、天皇に拒否権がありました。
村山首相の「反省」は中韓への「お詫び」の意味でした。
ゴメンナサイです。
13年前の野田さんの「反省」は何だったのでしょうか。
未だに意味不明です。
そして、今回の石破さんの「反省」は何を反省し、何を行うことでしょうか。
これまた意味不明。
こういうところを突っ込むのがマスコミの役目ですが・・・甘いですねぇ。
おっと・・・本題から外れました。
一橋治済の誤算・・・大御所政治
自ら手を下したのか、治済の意を受けた誰かが画策し実行したのか・・・、一橋治済にとって念願だった「息子・家斉の将軍職就任」が実現しました。
自らは「将軍の父」として幼少の将軍を支える立場になりました。
いや、そういう立場になったのだ・・・と思いました。
が、制度上で考えてみると御三卿は「政治に口出ししてはならぬ」という⑧吉宗の厳命があります。
息子が将軍になったからと云って御三卿の治済が政治の表舞台に出ることはできません。
これまで同様に黒幕、フィクサーとして地下工作をするしかない立場です。
こんな筈ではなかった。・・・と、「大御所」の地位を手に入れようとしますが・・・自らが祀りあげてやったはずの松平定信から拒否されます。
「大御所は前将軍の尊称です。将軍経験のない方が名乗る事はできません」
田沼から政権を奪ったつもりが・・・政権、権力がその手をすり抜けて・・・、老中首座にしてやった松平定信に奪われてしまいました。
「息子の⑪家斉を傀儡にして、俺が、俺が・・・」と思っていた空想が風船玉のように消えました。
原理原則、建前重視の松平定信は融通が効きません。
「目こぼし」「特例」などの自由裁量が利いた田沼とは正反対です。
もしかして・・・
白河の 清き水にも棲みかねて 元の濁りの田沼恋しき
・・・と詠ったのは、一橋治済だったかも知れません。
東海道五十三次絵図 32 白須賀
お前と白須賀二川の吉田屋の
二階の隅で はつの御油
こちゃ お顔は赤坂 藤川へ
写真
白須賀は遠州最西端の宿場になります。
ここを過ぎたら三河の国に入ります。
この宿場も海岸に接していますから、地震、津波の被害に遭って潮見坂を登った高台に宿場ごと避難をしています。
写真
潮見坂という地名は全国各地にありますが、ここからの景色がそのまんま広重の絵になったというので有名になりました。
上の広重の絵と、下の写真は全く同じ位置からの目線です。
現代は電線と電柱が景観を壊しますが、なければ文化生活は出来ませんし痛し、痒し、と言ったところです。
左の図は宿場の移転を示す航空写真です。
ちなみに写真に写っているゴルフ場が浜名湖CCです。
写真
この宿の名所と云えば藏法寺の潮見観音でしょうか。
漁師が遠州灘で網を引いたらかかってきたという由来は浅草の観音様や、川崎大師、善光寺などに似ていますね。
仏像を海に捨てるとしたら、仏教導入に反対していた物部氏の仕業か・・・などと古代史へと想像を飛ばしてみます。
写真
ただ言い伝えとして、備前岡山の殿様・池田綱政が白須賀に宿泊した時、夢に観音様が現れ、「すぐに立ち退け」と告げたとか・・・。
お告げを信じた殿様が夜半に白須賀出立して二川に向かうと、直後に大地震、津波が発生して危うく難を逃れたという話が残ります。
池田綱政は後楽園を造園した1700年頃の岡山の殿様ですから宝永地震(1707)の逸話でしょうか。