てやんでぇ 第14回 田沼と家基
作 文聞亭笑一
蔦重と瀬以の蜜月・・・僅かな期間でしたね。逃げられた蔦重、身を引いた瀬以・・・どちらも気の毒ではありますが、環境からしてハッピーエンドはあり得ませんでしたね。
例え一晩でも蜜月を演じてくれたのは脚本家の心遣いでしょう。
家基と田沼の対立
江戸城で将軍の世子が住む場所が西の丸です。
西の丸殿と云えば10代将軍家治の世子・家基のことですが、この家基が事あるごとに田沼意次のやり方に異を唱えます。
前回でも、検校から召し上げた「座頭金の債権を幕府が回収する」という政策に猛反対していました。
家基は神君・家康を尊崇し、家康の時代に戻るべきだと主張します。
士農工商の序列通り、農業を最優先し、米による経済運営を是とします。
いわゆる農本主義です。
それに、若者の正義感でしょうね。
家基は満十六才の・・・現代の高校生です。
一方の田沼意次は現実論者ですから経済の中核に成長してきた商業資本を取り込み、幕府の財政を運用していきます。
資本主義とまでは行きませんが、商業からも売上税のような形で運上金、冥加金を徴収します。
税を取る代わりに株仲間という組合を結成させ、それに専売権を与えるという優遇策を採りました。
蔦重の耕書堂が本屋仲間に入りたくても、株仲間が拒否して入れてもらえない・・・それが株仲間の存在です。
この組織・株仲間は十六世紀末に織田信長が楽市楽座で破壊した「座」の復活でもありました。
この株仲間が賄賂政治の悪弊を産みます。
商人達は専売権を増やそうと・・・専売権の積み増しを願って為政者へ賄賂を送ります
為政者は知行の石高で不足する資金を賄賂の形で要求します。
「越中屋、その方 悪よのう」「ウッシッシ・・・そういうお代官様こそ」
水戸黄門や大岡越前、暴れん坊将軍、遠山金さんの芝居に出てくる台詞が横行していました。
また、意次の政策で特筆すべきは新貨幣の鋳造です。
戦国以来のいろいろな貨幣が流通し、同じ小判でも物によって値打ちが違うという煩わしさを解消し、両替レートを統一します。
小判は一両 大判は10両
金銭を統一して、流量を増やさないと貨幣経済は動きませんから、金銭を改鋳して増発します。
政府によるインフレ政策を推進します。
物価は上がりますが、幕府はお金を作ることで財政が豊かになります。
さらに意次は長崎における海外との貿易にも着目し、外貨の獲得を目指します。
鎖国政策の廃止すら考えていたようで、北海道を舞台にロシアとの貿易すら企画しています。
この辺りで参謀役を務めるのが平賀源内だったようで、蝦夷地(北海道)の開拓や貿易、それに鉱山開発をはじめとした資源開発も提言していたようです。
前回はエレキテルばかりが目立ちましたが、源内先生は発明家と云うより政界の黒幕、経済コンサルタントと言った感じで田沼政権を支えていたようです。
蝦夷地に目を向けたり、海外に目を向けたりと言った政策は、海外通の平賀源内の入れ智恵でしょうね。
但し、伊能忠敬や間宮林蔵が蝦夷地の探索をするのはもう少し後の時代です。
田沼政権は功罪、相半ばします。
功績
①貨幣経済の発展で都市経済を豊かにしたこと
②身分を越えた人材活用により、文化や学問の普及、向上
欠点
①政治、経済が賄賂によって歪められた
②物価の上昇と、それによって都市と農村の格差が開き、地方が疲弊した
世子・家基の突然死
10代将軍の次、11代将軍と目されていた家基が鷹狩りの帰りに突然死します。
十八才(満十六才)の若者の突然死ですから、憶測が乱れ飛びます。
この話を長崎で耳にしたシーボルトは「落馬説」を主張しています。
オランダが贈った背の高いアラブ馬(サラブレッド?)に馴れていなくて、落馬したのではないか・・・と書き残します。
後の松平定信政権で定着した伝承は「田沼意次による、政敵排除のための暗殺説」でした。
確かに・・・事あるごとに田沼政策に反対していたのが家基でした。
かつての安倍政権に対する立民の枝野さんのような感じでしたね。
何でも反対です。
経済政策の基本が違いますから、そうなって当然でもありました。
暗殺説の裏付けとして、家基が亡くなった当日、治療に当たった医師が田沼家と親交のある医師だったことが挙げられます。
が、当日の経緯を見ると、暗殺、毒殺説は ? ? が多すぎます。
家基は朝早く城を出て ①元気満々 鷹狩りをしていた。
狩を終えて城に戻る途中で ②腹痛を起こし、乗馬に耐えられず品川の禅寺で休んだ。
医師が呼ばれ、③薬湯を与えたが痛みは治まらず、④城へと担ぎ込んだ
⑤二日後、息を引き取った
この状態から③を重視して暗殺、毒殺を唱えるのが通説でした。
が、怪しいのは②で、腹が痛くなったのは薬湯を与える前です。
毒であれば飲んでから症状が出るはずですし、二日間も保たないでしょう。
家基が罹ったのは急性盲腸炎ではなかったか・・・というのが現在の医師を交えた推論になっています。
腹痛から死に至る病気は色々ありますが、元気満々の、十六才の高校生が罹るものと云えば赤痢、チフスなど流行病以外は盲腸か腸捻転です。
この当時に流行病は起こっていません。
また、腸捻転は普段から胃腸の弱い人に起きやすく、体育会系の若者が罹る可能性は低そうです。
家基は盲腸炎に罹った。
現代なら手術で患部を除去して治療しますが、江戸時代に内臓に施す外科手術はありません。
杉田玄白は死体の解剖はしましたが、生体にメスは入れていません。
急性盲腸炎には「冷やして散らす」のが唯一の治療法ですが、それで治らなかったらおしまいです。
内服する抗生物質もありません。
③薬湯を与えた・・・のも逆効果ですね。
温かいものを入れてはいけません。
専ら冷やす
さらに④患者を移動させています。
たぶん駕篭でしょうが、安静にしなくてはいけないのに長時間移動をしています。
現代でも盲腸炎を誤診して逆の治療(温める)をすると死に病になります。
⑤発症してから、大体2日で毒が体内に周り、死亡します。
東海道五十三次絵図 14 吉原
酒も沼津に 原つづみ 吉原の
富士の山川 白酒を
こちゃ 姐さん だしかけ蒲原へ
こちゃへ こちゃへ
図
吉原宿は現在の富士市の中心部に近く
冨士川の河口原です。
田子の浦は古代以来の港町でした。
富士山を見るのなら・・・静岡側からは最高のスポットではないでしょうか。
図
JR新幹線・富士川鉄橋は東海道新幹線の目玉でもあります。
新幹線がこの辺りにかかると、乗客が一斉に富士山側に移動して、景観を堪能しました。
バランスを崩して脱線しないかと心配になるほどでもありましたが・・・杞憂でした。
現在の吉原、富士市は製紙の町として有名です。
高い煙突からは水蒸気を吐き出す白い煙が立ち上ります。
田子の浦港も原材料の木材の荷下ろしが中心で、山部赤人の「田子の浦ゆ・・・」という雰囲気ではありません。
田子の浦港ではなく海岸沿いの湊公園、愛宕神社の辺りまで行けば雰囲気を味わえます。
吉原宿も時代の変遷と共に街道筋が動いたようで、右の図にあるように元吉原の宿場から、中吉原の宿場へと移り、更に新吉原の宿場へと移っています。
図
何があったのでしょうか。
宿場の位置が度々変わるというのは異例で、おそらくここだけではないでしょうか。
冨士川の水害?かも知れません。
吉原から寄り道をすれば山の神・浅間大社へと参拝できます。
祭神はコノハナサクヤ媛、日本原住民の祖・大山祇おおやまつみ神の娘です。
天照大神の孫・ニニギと結婚し一夜で身籠もったことを疑われ、火中で出産します。
母子ともに安泰、安産の神として、それに 怖い女房の代名詞でもある山の神です。
図