てやんでぇ 第34回 反動、改革
作 文聞亭笑一
60年安保騒動の思い出
規律ある抗議活動「打ち壊し」から暴動に発展するのはいつの世でも同じことで、悪くするとそれが国家間の紛争を引き起こし、戦争に繋がってしまいます。
デモ行進でもそうですが、整然と隊列を乱さず、シュプレヒコールを繰り返すだけなら正当な行為なのですが、
交通整理に出動した警官隊を「取り締まり部隊」や「秘密警察」などと勘違いして
口論 ⇒怒鳴り合い ⇒小競り合い ⇒暴力行為・・・と発展し ついには商店に乱入して窃盗、強盗、その果てに放火まで及んでしまえば暴動ですね。
ニュースを見ていたら・・・世界のあちこちで日常のように暴動が起きています。
失政と煽動・・・この二つが組み合わさると暴動に発展します。
余所の国のことは解りませんが、自分が体験した「60年安保騒動」では、「戦争は嫌だ!」という国民の痛切な思いが、反米扇動家に利用されて大暴動になってしまいました。
私の高校でも「安保反対」が炎上して生徒会は「安保反対デモ行進」を総会で決議してしまいました。
校長に許可を要請しますが「高校生の政治活動はならぬ」と・・・頑として突き放されます。
挙句の果てに校長の原爆体験を聞かされて「シュン・・・」となってしまいました。
当時の校長・岡田甫先生は原爆投下の日、広島一中に勤務し被災していました。
しかし、生徒総会の決議を引っ込めるわけにもいかず
「わかりました。安保反対はやめて『議会制民主主義を守れ』に変えてデモさせてください」
こう差し替えて・・・それを葬式行列風に黒一色の行進にして・・・提案しました。
生徒会長ではなく、二年生の実行委員の提案に校長が乗って・・・松本市内を行進しました。
その高校生が・・・80歳を越えました。
企画やら提案やら、山ほどしてきましたが、人生 最高のアイディア発揮の場面は65年前だったように思います。
反・田沼
田沼政治とは・・・江戸幕府の財政破綻を救った「通貨改革」と自由経済政策による「民間活力」の興隆を促進した政治だったのではないでしょうか。
当時にGDPなどという指標はありませんが、田沼時代のGDPはそれ以前とそれ以後を比較しても最高水準に達していたのではないかと思います。
その分だけインフレは進みますね。
我々が体験したバブル期に近い雰囲気だったと思います。
まず「通貨」ですが、田沼以前は大阪銀と江戸金のダブルスタンダードで為替相場が運用されていました。
・・・日本国内に円とドルが共存していたようなもので、幕府が主導する貨幣よりも、大阪商人が主導する貨幣相場の方に信用がある・・・という、ゆがんだ金融環境でした。
これを「二朱銀」という共通通貨で統一してしまったのが田沼意次です。
大阪の貨幣も、江戸の貨幣も、回収して鋳つぶしては「二朱銀」本位の貨幣に改鋳してしまいます。
さらに貨幣の発行量を格段に増やします。
発行を増やした分はすべて幕府の財産ですから幕府は大金持ちになりますね。
このお金で幕府は金融業を始めます。
勘定奉行とは・・・日銀総裁のような者
勘定所筆頭とは・・・融資窓口責任者
ここには賄賂が集中しますねぇ。
土山宗次郎・・・花魁すら身請けしてしまいます。
資金を財政に窮した大名に貸し付けて、利息を取ります。
大名は借りたお金で殖産振興を図り、地方にお金を回します。
開墾、開拓、特産品の増産・・・現代で云う「新規事業開発⇒設備投資⇒雇用拡大」の正のスパイラルです。
事業ですから当り、外れがあります。
当たったところは豊かになりますが外れたところは借金地獄・・・まぁ、仕方ありませんね。
それが自由経済です。
「武家の商法」という言葉は明治維新の後にできた言葉のようですが、田沼時代は「大名商売」の時代でもありました。
地方政権が財政健全化のために事業開発に試行錯誤した時代です。
藩・・・と言うのは一つの企業です。
1万石の大名家とは・・・資本金10億円の会社といった感覚ですね。
米作農業だけで生きてきましたが、それだけでは江戸屋敷も地方も運営できなくなってきていました。
文化が進むと贅沢さも進むのが世の常、収入よりも支出が嵩んでいきます。
定信登場
老中筆頭・白河藩主・松平定信・・・が登場してきます。
打ち壊しなど、御府内で暴動が起きたのは田沼の政策が悪いからだ・・・早急に刷新すべし
こういう雰囲気で・・・アンチ田沼派の松平定信が浮上してきました。
しかし、老中、若年寄など幕閣は田沼派の重商主義の面々が占めていて、農本主義者の定信の味方はいません。
反田沼、改革を謳ってもどこか白々しいのです。
経済政策、金融政策は田沼路線の延長しかできないのです。
その意味では気の毒な「改革」になりました
定信が始めた寛政の改革は、江戸幕府3大改革の一つに数えられます。
①享保の改革・・・8代将軍・吉宗が始めた倹約令
②寛政の改革・・・松平定信が行った道徳教育的改革
③天保の改革・・・水野忠邦が始めた経済改革
さて、NHKの大河ドラマが定信をどう描くか・・・予測が付きませんので憶測は控えますが、田沼の庇護の元に暴れてきた蔦重にとっては「嫌な奴」でしょうね。
自由は倫理的な堕落を産みます。この二つは切り離せません。
何をしても良い、それが自由と云うことですから・・・必ずそうなります。
自由の絶頂にいる現代日本・・・毎日のニュースに出てくるのは色恋沙汰の殺人事件、教員や官僚によるセクハラ、破廉恥な事件ばかりで、終には無差別殺人です。
義務を放棄した権利主張、自己中論理の横行とそれを囃し立てるネットでの無責任情報・・・目に余りますが・・・それが自由ではないでしょうか。
文聞亭もその自由を享受して好き勝手を書いています(笑)
定信の改革はまずは「道徳的反省」から入ります。
「自由」の暴走・・・やり過ぎを処分します。
一罰百戒・・・この言葉が大好きなのが現在でも霞ヶ関に巣くう方々のようですが、土山宗次郎は気の毒でしたね。
賄賂の代表選手の扱いで処刑されてしまいました。
ついでに吉原にも枠がかけられます。
「花魁の身請け金は500両を上限とする」
定信改革の基本は「地方・農村」にあります。
都市住民・・・富裕層には制約が強化されます。
町衆と幕府のせめぎ合い・・・これからの展開でしょう。
東海道五十三次絵図 35 御油
お前と白須賀二川の吉田屋の
二階の隅で はつの御油
こちゃ お顔は赤坂 藤川へ
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御油と次の赤坂の間は
「あまたある街道の中で最も短い区間」といわれています。
更には本陣が4軒、旅籠が65軒ありました。
それもあってか宿場の客引きが激しかったようで、広重の図にも「旅人留女」と名前が付いています。
東海道中膝栗毛でも弥次さん、喜多さんが留女にまつわりつかれて必死で逃げきる様が描かれます。
ここに宿場が出来たのは、浜名湖の北を行く姫街道との分岐点・・・追分・・・に当たるからでした。
北回りの本坂通りが姫街道と呼ばれる所以は「女客が多かった」からだ・・・と云います。
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というのも東海道の新居宿、今切の関所は女改めがキツいことで有名で、セクハラ的な取り調べが当たり前だったようです。
それを避けるために、東海道を避けて取り調べの緩い気賀関を通ったようです。
女性客が多いので姫街道・・・納得します。
御油の名物と云えば天然記念物の松並木があります。
隣の赤坂宿との間を松並木がつなぎます。
代々手入れを重ねていまだに当時の街道の雰囲気を味合わせてくれています。
余談になりますが尻尾の短い猫のことを「御油猫」と云うそうです。
猫の尻尾に形は8通りあるようですが、最も短いのが御油猫「オンブ猫」などとも言いましたね。
御油と赤坂の間の短さが猫の尻尾にまで影響しました(笑)
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