てやんでぇ 第38回 石門心学
作 文聞亭笑一
幕府による言論統制が本格化してきました。
当初は大田南畝(旗本)恋川春町(小島藩士)、朋誠堂喜三二(秋田藩士)、といった士分の者が追及をうけますが、次第に町人階層の作者にも追求の目が向けられていきます。
更には版元にも反政府の意思があるのではないかと疑ってきます。
為政者からみれば政治批判の媒体は蝿や蚊のようにうるさい存在です。
トランプさんがABCテレビを敵視している様に・・・ 自民党が週刊文春を嫌うように・・・ 体制批判の火は早いうちに消す行動に出ます。
現在は多くの国で「言論の自由」が法的には保障されていますが、宗教的戒律で封じられているケースが見られます。
アラブのように政治と宗教が分離していない国もありますし、中国共産党のイデオロギー、ロシアの秘密警察の暗躍など法以外の規制もあります。
その意味で最も自由なのが「日本」ではないでしょうか。
法的にも、倫理的にも、自由が大手を振って闊歩します
石門心学
山東京伝が「心学本」を手がけて蔦重と対立する場面がありました。
当時、庶民の間に流行していた道徳教本ですね。
善玉がいて・・・悪玉がいて・・・善玉が悪玉を駆逐するという教訓を物語にします。
単純明快・・・わかりやすいですねぇ。
京の人、石田梅岩が始めた石門心学は日本人の心の奥底に沈殿している神様への畏れや、仏様への憧れのベースの上に、論語などの儒学を載せて・・・教訓をわかりやすく庶民に解説する哲学というか、道徳律です。
江戸判「道徳教育教科書」でしょうか。
これが、質素倹約を旨とする松平定信の改革路線に合いました。
石門心学の基本は石門五則と言われる5つの基本倫理で成り立ちます。
石門五則
1,持敬・・・世の原則を敬うこと 天地の理、長幼の法など畏れ敬うこと
2,積仁・・・慈善の大切さを述べます。
成功は社会の助けがあればこそ・・・社会に還元すべし
大いに儲け納税する、余った財は寄付すべし、弱者に施しをせよ
3,知命・・・自分が天から与えられた使命は何か、それを知り・・・全うせよ
松下幸之助や、立石一馬、本田宗一郎などが唱えていた「企業は公器」の発想
「社会に貢献してこその企業。貢献する企業には儲けさせてくれる」
4,致知・・・学び、学び、そして実践すること 知識は生かしてこそナンボだ
実学の発想・・・知的ノウハウの蓄積と伝承
5,長養・・・人を育てよ、ひとりの能力には限りがある、だから同志、後輩を育てよ
とくに子どもは大切だ。
一代でできぬことも二代三代で達成していく
1は神道的です。天文・大自然の偉大さ・・・人智の及ぶところではない。
あるがままに受け入れる(畏れる)。
自然は自然として受け止め、それに対処する術を考える。
2は仏教的ですね。布施の発想です。
五則を行うのが善玉、五則に逆らうのが悪玉 善玉が悪玉を駆逐する
石門心学は江戸時代中期から明治初年にかけて全国に拡がりました。
が、明治の文明開化後に、急速に衰退しました。理由は
西欧文明は新しくて正しい 善玉である
日本式考えは古い 古いのは悪い 悪玉だ
この同じ波が太平洋戦争後にもやってきました
アメリカが持ち込んだ憲法理念は新しくて正しい
戦争に負けた日本古来の法は間違いだ
古いことは悪いこと・・・新しいことは良いこと 日本文化は次々に廃れていきました。
今、浅草寺や金沢兼六園などに行くと和服姿の外国人がワンサカと闊歩しています。
外国人は日本的なエキゾチックさに憧れ、日本人はGパンにTシャツでうろつきます。
去年から今年にかけて孫の3人が次々と結婚披露宴をやりますが・・・全部 教会方式。アーメンです。
今時・・・神式は古い、ダサい、格好悪いのでしょう。
まぁ、ご都合主義でどうでも良いことではありますが・・・夏場に和装は酷ですね。
花嫁虐待になりそうです(笑)
今日から赤い羽根募金活動が始まります。
毎年、毎年、募金額は減っていきます。
この募金で購入したプレゼントを使って、一人暮らし高齢者への訪問活動(安否、健康確認)などが行われます。最近は福祉のための訪問も詐欺師、押し売り、押し買いなどの悪党と警戒されて難渋しています。
そういった被害の防止のためにも近隣ネットワークが必要で、民生委員や町内会役員、包括支援センターなどとの顔見知り、顔見世が必要なのです
皆様も是非、募金に協力してください
川崎市の目安額は 赤い羽根募金500円 年末助け合い募金500円くらいです。
心学第二原則の積仁の第一歩です。
共同募金会の末端役員からのお願いでした(笑)
長谷川平蔵と 人足寄場と 心学と
長谷川平蔵は池波正太郎の「鬼平犯科帖」で火盗改めのスーパースターとして描かれますが、歴史的には現代の刑務所の原型・人足寄場を提案して、実現した功績者でもあります。
江戸期も・・・そして現代も・・・犯罪者の社会復帰には大きな壁があります。
刑期を終えても「前科者」の評判が邪魔をして働き口が見つからず・・・生活に困窮して再犯というパターンが多くなります。
この悪循環を絶とうと、松平定信の支援で平蔵が始めたのが石川島・人足寄場でした。
犯罪者や刑の執行が終ったけれど行き場のない無宿人を収容します。
無宿人とは戸籍のない浮浪者です。夜逃げをしてきた者、親から勘当された者、村八分になった者、犯罪者、刑を終えて更生中の者などを指します。
彼らを収容し、食と住まいを与えて職業訓練を行います。
工場の作業員のような仕事ですね。
作品、製品は代価が入りますから収容者へ給金が支払われますが、その半分は強制貯蓄されて、寄場を出所するときにまとめて支給されます。
この制度が現代に残るのが大相撲の懸賞金
懸賞一本(一封)3万円ですが、勝利の当日に支払われるのは半分です。
残りは協会に積み立てられ、引退するときにまとめて支払われます。
一種の退職金でしょうか。
それはともかく、この寄場は正月には鮭、節分、花見、端午、七夕などの節句祝もやりますし、 技能も身につきます。
石川島から巣鴨、そして府中へと・・・性格を変えながら現代に至ります。
東海道五十三次絵図 38 岡崎
岡崎女郎衆は ちん池鯉鮒
よく揃い鳴海絞は 宮の舟
こちゃ 焼き蛤を ちょいと桑名
矢作川を大名行列が渡っています。
奥の方に岡崎城が描かれていますから西からの入り口ですね。
そのお城・・・神君家康が生まれた場所ですからさぞかし立派・・・と思いきや、三層の小さな天守閣が建ちます。
家康が生誕地に特別な思い出がなかったのか、築山殿、信康などとの嫌な思い出が多かったからか、それとも大きな城にしては反逆の畏れがあると危惧したのか、岡崎城主は代々5万石程度でした。
譜代大名の本多-水野-本多と城主が遍歴します。
しかも明治維新では、薩長政府から目の敵にされ、廃城令で徹底的に破壊されています。
現在の天守閣は戦後に再建されたもので、様式は松山城をモデルとした江戸期の築城技術です。
岡崎二十七曲り
岡崎の市街地に東海道を引き込んだのは徳川関係者ではなく、秀吉の家臣として家康の関東移封後に岡崎城主となった田中吉政です。
東海道を城下に引き込んで、曲がり角を沢山作った狙いは軍事・防衛目的と商業振興です。
田中吉政は流石に近江人です。
商売の道に明るい。曲がり角を多くすれば旅人は通行しにくくなります。
一方で店の数は多く出店できます。
城下に客を長くとどめて、かつ商品の品揃えを多くして、店の特徴を競わせて、城下に金を落とさせる・・・町全体のモール化をやりました。
城主が代わっても、町人達は伝統を守りますから五十三次の宿場では、駿府(府中)に次ぎ二番目に大きな宿場に発展しました。