38 丹波の国(2020年12月23日)

文聞亭笑一

いつの世でも政治には大義名分が重要になります。日本史の流れを見ると大義は常に天皇家、朝廷と繋がっていて「勤皇」であることが求められます。

戦国の世にあっても天皇家が認可した武家の棟梁が将軍家であり、将軍家が朝廷の代理として政治を執行するタテマエになっています。

信長が将軍家を討つというのは「足利将軍家を廃し、織田将軍家を興す」というのが一般的な政権移動ですが、正親町天皇は信長に将軍職を与えません。

理由は、前回も触れましたが「前将軍・義昭が生きているから」ということですが、実際のところは信長の勤皇を疑っているのです。

そう疑われる理由は、信長は朝廷が与える官職を辞退すること、請けても短期間で辞任してしまうことがあります。

信長を右大臣、右府などと官職で呼ぶことがありますが、それは「前右大臣」を省略した呼び方です。実際は三か月しか大臣をしていません。

信長が官職を受けないのは、朝廷が得意とする「位討ち」によって公家社会に翻弄されたくないからです。

朝廷の言うことを聞きたくないための対策で、政権としての自由度を担保したかったからです。

この姿勢は後の家康も同じで、家康はその為の対策として源頼朝に倣い政権を関東に置きました。表立って対立せずに影響力を削ぐやり方ですね。

その後も、信長は何度も将軍宣下の工作をしますが、朝廷は「前将軍・義昭が返上しないから・・・」と拒否し続けます。

何千人、何万人も虐殺を繰り返した信長が、たった一人の将軍を殺さなかったことが、その後の朝廷との関係をギクシャクとさせます。

これに苛立った信長は「ヨーロッパ型・国王」を考え始めます。キリスト教の宣教師たちを近づけた狙いの一つが「政治改革」でもありました。

この辺りが・・・近年になって「本能寺の犯人説」として浮上してきています。

蘭奢待

前回に「蘭奢待の切り取り」が話題になりました。公家の書き残した日記には「天皇に強要して奪った・・・」といった記録もあります。

信長が朝廷に対して不謹慎である、勤皇でない・・・などの材料として知られる事件(?)ですが、足利将軍家は何度も切り取りをしています。

蘭奢待と言うのは900年ごろに渡来した香木で、奈良正倉院御物として朝廷が管理していました。

近年の調査では30回とも、50回とも言う切り取りがあったようで、朝廷が管理しているのはそのうちの十数回に過ぎず、残りの切り取り跡は、東大寺の関係者が勝手に切り取ったのではないかとも言われています。

大御所となった家康も欲しかったようですが「切り取ると不幸が訪れる」と言う噂を気にしてやめたと言いますが、側近の大久保長安や本多正純を派遣して、調査させています。

最も新しい切り取り跡は明治天皇が切り取った痕です。

蘭奢待の文字には「東」「大」「寺」が隠されていると言われます。

そう言われてよく見れば、「蘭」の字には東が、「奢」の字には大が、「待」の字には寺が隠されていますね。

丹波攻略

信長の軍勢は浅井、朝倉を倒して京都への道を抑えましたが、近畿圏すべてを掌握したわけではありません。

信長の本拠地は依然として美濃、尾張です。そして友軍の徳川家康が三河、遠江で信玄亡き後の武田勝頼と対峙しています。

近畿圏では近江(滋賀県)と山城(京都南部)は平定できました。大和は筒井と松永が争っています。摂津、河内、和泉(大阪)は本願寺の勢力が巣食っていて落ち着きません。

そんな中で信長は方面軍制度を考えます。

京都から北に向かい、丹波・丹後方面に明智光秀を派遣します。

同じく近江から北陸道を北に向かって越前の平定を柴田勝家に指示します。

尾張の周辺では伊勢、伊賀方面の平定に滝川一益を抜擢します。

そして西の毛利に向けて播磨方面への進出を羽柴秀吉に任せます。

難敵の本願寺には佐久間信盛を主将として摂津勢の荒木、池田、中川、高山などを配します。

光秀が向かった丹波は、信長が将軍義昭を擁して上洛した折は「恭順」だったのですが、義昭の信長包囲網に参加して敵対勢力になりました。

本願寺、毛利と組んで反信長の旗を掲げます。丹波は海のない山国です。信濃や甲斐と同じく、盆地の単位に群雄が割拠していますが、この時期は黒井城の荻野直正と八上城の波多野秀治が中心となって国人をまとめていました。

1576年(天正4年)光秀は信長からの指示を受け、坂本城から若狭方面に向かい、丹波北部で信長に恭順している一色氏(弓木城)、山名氏(出石城)の領地を通って北から荻野の黒井城を攻めます。織田方の波多野秀治と呼応して、南北から荻野を挟み込む作戦でした。

が、波多野勢が寝返ります。明智勢の京都との連絡に使う山陰道を絶ち、黒井城と連携して、明智軍を挟み撃ちしてきました。

戦力的には対等ですが地の利がありません。仕方なく摂津方面(神戸方面)に迂回して退却します。明智軍団としては初めての敗戦でした。丁度、丹波の国を一周するような軍旅でした。

この後、本拠氏の亀岡城で丹波の地侍を個別に調略しつつ、八上城の波多野一族を攻め上げていきます。その折に「母親を人質に出した」と言う話がありますが、江戸時代の作文のようです。

今回のドラマでは、それをどう描きますかね? 何となく人質に出しそうな雰囲気です(笑)

明智軍団

この当時の明智軍は六つのグループに分かれていました。その後もこれが基本になります。

一族衆   美濃の明智の庄以来の部下です。   明智左馬助、明智次郎衛門や、妻・煕子の実家・妻木一族など

譜代衆   流浪の時代を支えてくれた家臣団   藤田伝五、溝尾庄兵衛、これに斉藤利三が加わります。

西近江衆  坂本城を預かってから採用した琵琶湖西岸の将兵

山城衆   京都時代に採用した将兵

丹波衆   丹波の国を預かり、亀岡など南丹波で採用した将兵

旧幕府衆  足利幕府が滅亡後、採用した旧幕府の官僚。武官と言うより事務官僚が多い   伊勢貞興などを筆頭に内政面で活躍し、「明智の善政」を実現した。

「バラエティーに富んだ人材に恵まれて・・・」と云った感じですね。

明智軍団が京都を任されて、公家衆や、神社仏閣などの宗教界とのややこしい折衝を任されるだけの人材、スタッフを抱えていました。信長にとっては使い勝手の良い部下だったと思います。