15 お家騒動(2020年4月23日)

文聞亭笑一

タイトルに使った「お家騒動」という言葉は、江戸時代になってから大名家の跡目相続をめぐる争いを称してできた言葉のようですが、戦国時代、戦国そのものの原因が相続問題でした。

法治国家となり、人類の英知を絞って、争いを避けるべく準備された法体系にある現代でも、相続問題は家族、親族の人間関係を破壊します。人間の、永遠の、「業(ごう)」なのでしょうか。

争いの元々は家族、親族同士の争いなのですが、途中から応援団が首を突っ込みます。この人たちの思惑・・・つまりは欲心に振り回されて大きな争いになり、局地戦闘になり、戦争に発展します。戦国時代の「戦」「乱」「変」の殆どは、相続争いです。

美濃・斉藤家の場合

政局を語る場合に「保守」と「革新」という構図を使います。時代を問わず、政治的対立は同じ構造・構図になりますね。

室町幕府の「法度」「礼式」を遵守し、体制を守ろうとする一派があります。

その一方で、慣習、法を無視して、楽市楽座を実行してしまう道三のように、旧体制の権限を認めず、改革をする者とに分かれます。日本全国、至る所でこの対立が沸き上がっていました。

歴史の教科書では「室町幕府に実力・指導力がなかったから…」と言いますが、そうではないと思います。農業資本を前提に作られた経済体制から、各地に工業が興ります。そして商業資本が各地の産業を繫ぎ、物の流通を活発にして経済成長を促します。各地に富の蓄積ができます。この「資本」が旧体制とぶつかり、社会変革を求めました。それが戦国です。

楽市楽座・・・信長の経済政策として有名ですが、これを最初に始めたのは油売りから身を起こしたとされる蝮・斉藤道三です。商売、経済感覚に優れていた道三からすれば、土岐頼芸以下の美濃の政治家などは「たわけ」そのものだったでしょうね。血筋とか、伝統とか、権威とか・・・

バカバカしい存在だったでしょう。道三の政策の基本は「資本主義」だったと思います

一方、息子の高政は土岐家の血筋にこだわります。いわば「権威主義」ですね。これを支えるのが国衆と言われる地方豪族で、西美濃三人衆と呼ばれる稲葉一鉄、安藤、氏家と言った面々になります。彼ら西美濃三人衆が、道三の進める改革路線に抵抗したのは「川筋衆(川並衆)」と呼ばれる水運業者、商人に対する反発からでしょうね。江戸時代に入って「士農工商」と身分制度を作り、商業を最下位の身分に貶めた原典は戦国時代からの伝統的な?怨念?でしょう。

だから川並衆出身で、商人として歴史に登場した蜂須賀小六、蜂須賀家は苦労しましたね。

もう一つの対立軸は外交です。

美濃・尾張連合を形成し、中部東海地域に独立した革新社会を実現しようと画策する道三に対し、高政以下の国衆は室町幕府体制の維持を願います。国の単位で支配者・守護がいて、地方分権・相互不干渉の安定政権を求めます。

京の幕府に指導力はありませんが、駿河の今川には経済、軍事とも実力があります。保守本流の今川が京を目指して動き始めたら、それに従って東海勢力として全国制覇を狙うのが美濃の土岐源氏の役割・・・と考えていたのかもしれません。

そうなると、今川と対立している尾張の織田は敵になってきます。

尾張の事情

尾張も複雑です。もともと室町体制の序列でいえば、政権を執る資格のない織田信秀が津島、熱田の商業地を支配することで経済力をつけ、戦力を充実させて尾張の政権を牛耳っていました。

しかし、「信秀なら仕方ないが、信長では従えない」と考えるのが本家・清州の織田彦五郎(信友)です。

格式としては守護の斯波義統を傀儡として人質にしていますし、幕府の位置づけは「守護代」で、その家老格の信長の家(弾正忠)などの下風を受けたくありません。権力を取り返したいところです。

信秀が死んで、家督を信長が継ぎます。しかも、家臣が信長派と信行派に割れてゴタゴタしています。更に、信長は美濃のマムシと結んで東の大国・今川と対決します。

今川と対決したら勝ち目がない・・・というのが常識的な戦略判断です。政権奪取へ、まず、清須の彦五郎が動きました。

今川と結んで名古屋の信長を倒し、信行、信光を同調させて政権を手に入れようとします。

ところが、この戦略に傀儡のはずの斯波義統が猛反対します。斯波家と今川家は室町幕府以来のライバルと言うか、犬猿の仲でしたから「今川の世話にはならぬ」と猛反発します。

これを見て、「面倒だ」と、今川との交渉を担当していた彦五郎家の家老・坂井大膳が斯波義統を暗殺してしまいました。力はありませんが斯波家は「尾張守護」です。権威の象徴です。彦五郎が尾張の政権を奪取するための看板です。

信長にとっては清須を攻撃する名目が建ちましたから、清州を攻めます。坂井、川尻という清州の家老たちを討ち取りました。守山の信光に援護を求めた彦五郎ですが、信光に暗殺されてしまいます。これで、信長の対立者が一人消えました。

雪斎禅師

戦国物語を語る場合に、いわゆる「参謀」として登場する人たちが数多くいます。

伊達政宗には片倉小十郎、上杉景勝には直江兼続、徳川家康に本多定信、秀吉には武中半兵衛、黒田官兵衛、武田信玄に山本勘助・・・などなど、枚挙にいとまがありません。

その中でも、今川義元と雪斎禅師の関係は、参謀の方が主役を食ってしまうほどの存在感があります。圧倒的な存在感で戦国末期の物語に登場します。それだけのことをしましたね。

信玄と謙信の川中島合戦を仲裁し、甲相駿の三国同盟を成し遂げた外交手段は驚くばかりです。上杉謙信、武田信玄、北条氏康、今川義元・・・戦国末期を代表する大物たちの間を調整し、休戦条約、同盟条約を成し遂げるといった外交力は他に類を見ません。そればかりか松平竹千代、後の家康を見込んで英才教育をするなど、戦国の終焉を目指して数々の布石をしています。

歴史に「IF」はありませんが、雪斎が生きていたら・・・桶狭間はありませんでした。