06 同志・藤孝

文聞亭笑一

近江、滋賀県の国友村が出てきました。国友村が鉄砲生産の中心地になるのはもう少し後かと思っていましたが、1544年には足利将軍家から注文を受けていますね。物語の時代が1550年ころとすれば、すでに鉄砲生産は軌道に乗っていたものと思われます。

第1節 鉄砲生産のメッカ、近江国友村

当時から江戸時代初期にかけての鉄砲産地は堺、根来(和歌山)、近江国友の3カ所が有名です。番組でもやっていましたが、鉄砲という新技術と共に「分業」という新しい生産システムも入ってきました。それまでの工業製品の多くは、一人の職人が最初の材料選びから、最後の仕上げまでの、総てを行うスタイルでした。陶芸品などは今でもそのやり方ですね。

鉄砲生産の分業は4つに別れます。

1 鍛冶師・・・銃身を作ります。鉄を伸ばして、丸めて、鉄の筒を作ります。

手作業で、どういうやり方をしたら丸くて真っ直ぐな銃身になるのか? 

興味あるところです。鉄鋼の専門家の方に教えてほしいですね。

2 台師 ・・・銃床を加工します。木工技術ですね。

3 カラクリ師・・・着火部分や引き金など、操作部分を担当します。もしかすると・・・、銃身の末端を塞ぐネジも彼らの担当だったかもしれません。

4 火薬師・・・黒色火薬を調合します

私など、元・技術屋は、どうしても技術的興味に目が行ってしまいます。銃身をふさぐネジ・・・

日本の工業史にとって画期的な「事件」でした。最初にこの技術導入をした種子島の鍛冶師は、愛娘をポルトガル人の妾に差し出して技術を導入した・・・と云うような伝説も残っています。

前回の番組で光秀が「鉄砲の分解」をやろうと鉄砲鍛冶を探しますが、もしかすると次回には、ネジとか、火薬の調合とか、そういう部分に触れてくれるのではないかと期待します。

今までの大河で「工業史」「技術史」に触れたものは殆どありません。工業立国の日本のNHK、国営放送の番組ですから、そういう観点も期待します。

国友村は、当初は幕府や六角家や浅井家の管理下にありましたが、1570年の姉川の合戦で織田領になると、この地を任された秀吉のもとで、大発展を遂げます。大量生産方式を確立し、長篠の戦に代表される織田鉄砲隊の銃を生産しました。堺や、根来が反信長派の鉄砲生産を担当していましたが、生産量には大きな差が出ます。また、信長が堺を抑えたのも、反信長陣営への、武器供給の首根っこを抑える戦略です。

まぁ、それは後の話。国友の鉄砲は現代にも引き継がれ、後継の国友鉄砲店は現代でも京都で射撃競技用の銃や火薬、花火用の火薬などを扱っています。

第2節 三淵藤英、細川藤孝兄弟

三渕藤英・・・戦国物が大好きな文聞亭でも、あまり記憶になかった名前です。それに比較的大物の俳優を当てているので「??」と思い、調べてみました。前回の番組で三淵自身が自己紹介していましたが、細川藤孝(後の幽斎)の兄ですね。

光秀と細川藤孝は、この先に「将軍義昭の擁立」をめぐって同志となる間柄です。

細川藤孝は三淵家の次男に生まれます。・・・と云うか、12代将軍・義晴が妊娠した妾を三淵家に下賜し、その結果生まれた子なので、将軍の御落胤だという説もあります。

・・・が、これは細川家が出自、身分を美化するために作った創作でしょう。

ともかく、細川淡路守家に養子に出され、13代将軍・義輝の奉行衆になります。その為か、官位が高く、従四位下をもらっていますね。当時の大名たちの殆どは従五位下ですから、宮中での地位の高さ、覚えのめでたさが推察できます。

ともかく、文武両道とはこの人のことで、剣は塚原卜伝からの直伝です。和歌は「古今伝授」の資格を持つ宮中歌壇の第一人者で、将軍どころか、御水尾天皇からも目をかけられていました。

三淵と細川と明智・・・この先どうなっていくのか。

これに将軍・義輝、義昭が絡み、信長や三好、松永弾正が絡んで面白くなりそうですね。

これ以上の先回りはしないことにします。

第3節 三好三人衆

三好三人衆という表現は見たり読んだりしたことがおありと思いますが、「Who?」となると・・・答えが言える人は少ないと思います。

三好家は、阿波徳島や淡路などを所領にする将軍家の家臣大名ですが、京都町奉行的な役割を担っていたのと、本国との通路に当たる堺が経済発展をするにあたって、その海上用心棒的な役割を担います。さらに税収を含めた経済力で、将軍家内部での存在感を高めます。

三好長慶の代になると、三好家の言うことを聞かず、将軍親政をやりたがる13代・義輝を追いだしてしまいます。その義輝が逃げた先が朽木(くつき)谷です。

朽木の話は後に回し、三好三人衆とは三好長逸、三好宗謂、岩成友通の三人です。同じ三好家の枝分かれですが、三好長慶の家とは別です。三好家が将軍を傀儡にして近畿(京、大阪、奈良)の政治を行っていますが、グループとしてまとまっていたわけではありません。長慶、三人衆、松永弾正の三つ巴のバランスの上でしたね。

第4節 朽木谷(くつきだに)

現在の住居表示は滋賀県高島郡になりますが、京都の奥座敷と言うか、隠れ家と言うか、比叡山の北側に当たる場所です。若狭湾からの海産物を運ぶ道・鯖街道の途中で、交通路の難所の一つでもありました。後のことになりますが、朝倉攻めに失敗した信長が京都に逃げ帰ったのが、この「朽木越え」です。

それはさておき、将軍義輝はこの朽木谷に逃げ込んで成人します。三好長慶との和議がなって室町幕府に戻りますが、家来たちの多くも、朽木谷に避難生活をしていました。細川藤孝の兄・藤英の息子たちが「朽木」を名乗って江戸の旗本として生き残りますが、その当時の縁でしょうか。後に、朽木家は信長の逃走を助けた手柄で、朽木2万石の大名になります。

しかし、関が原では西軍に属し、さらに小早川の寝返りを見て東軍に寝返りますが、決断が遅すぎたことが災いし、家康の不興を買います。大名の権利〔1万石以上〕を剥奪され、旗本として生き残ります。