12 正座と畳(2020年4月1日)

文聞亭笑一

光秀が、信長と帰蝶に頼まれて今川と織田の和議の仲立ちをする・・・今回の作者は、何とも大胆な仮説を立てましたねぇ。今川と織田が、将軍家の仲裁で和議を結び三河を今川の支配下に認めることにしたのは確かです。これに光秀・・・というより、美濃の斉藤や土岐が手を貸したかどうかは分かりません。わかりませんが、第三者として介在した可能性はあります。

この和睦で、三河全域が今川支配下になり、織田勢は堺川の線まで後退することになります。織田方は三河の最前線であった安城を失い、水野氏が守る刈谷城が最前線になります。

刈谷の水野は家康の母・お大の実家です。そして、そのお大が再婚する知多半島・阿久比の久松家も、織田方の前線に位置します。阿久比の久松、後の久松松平家・・・伊予・松山十万石として明治まで生き残る家系です。

女の立膝

今回のドラマを見ていて「あれ?!」と思われた方も多いと思いますが、帰蝶も、光秀の母のお牧も、片足を立てた、いわゆる立膝で座っていますね。今までの映画やドラマのように両足を揃えた正座をしていません。

が、実はこれが正解で、両ひざを折ったいわゆる正座は畳が普及した江戸期からの座り方です。また、正座という言葉自体が明治になって出来た言葉です。江戸時代は「つくばう」「かしこまる」という表現をしていました。

江戸幕府は支配権を確立するためにややこしい儀礼を幾つか作りました。それが小笠原流礼法と称する作法ですが、ルーツは茶道にあります。江戸城に登城する大名たちにその作法を強要し、できないと田舎者とバカにし、大名家の活力を奪う手段でした。大名も、それを部下や領民に強要し、偉くなった気分でいましたね。大名行列で沿道の庶民に土下座を強要するなどもその一つの現れでした。土下座は両ひざを折った、いわゆる正座でなくてはなりません。

古代から両ひざを折る座り方がなかったわけではありません。平安時代から、いや弥生時代からあった座り方ですが、これは儀式用のもので日常は使われていませんでした。儀式とはすなわち神前、仏前、それに将軍の前に出る時です。

平安時代の服装で思いだすのは高貴な女性が身に付ける十二単衣ですが、この十二単を着ると両膝を揃えた、いわゆる正座ができません。正座するための設計ではないのです。座るには胡坐(あぐら)をかくしかなかったようです。ですから平安期の「女性の正座は胡坐」なのです。

いずれにせよ、戦国時代の地方豪族の建物は板の間です。殿様クラスになると板の間の一部にクッション材のように畳が置かれていました。室町幕府のある近畿圏では書院造という建物が流行り始め、これは畳を張り詰めていましたが、至極稀なケースでしたね。一部の上流階級だけの様式でした。

畳が本格的に普及するのは江戸期に入ってからです。この文化が庶民に行き亙るのは1700年ころの元禄時代です。ドラマの時代は、それより150年も前の時代ですから畳のような贅沢品は美濃や尾張にまで普及してきていません。両膝を揃えて座っていたら痛くてしびれてしまいます。秀吉の奥さん・寧々さんの肖像画や、妾の京極竜子の肖像画でも立膝姿の物が残っています。

ついでですから畳のルーツについて調べてみました。

古代、弥生時代から、土間又は板の間に敷く敷物として、稲わらや干し草などを織りこんだ筵(むしろ)、茣蓙(ござ)菰(こも)などが作られてきました。いわばクッション、座布団代わりです。菰と筵は稲わらから作ります。織の粗いのが菰、密なのが筵、筵よりも厚く織り込んだのが信州方言で言うと「ネコ」。ネコは2cm程の厚みがありました。板の間の敷物として使われたのはこちら、ネコの方でしょうね。茣蓙は畳表の材料であるイグサを織ったものです。

これら敷物に共通することが「使わない時は畳んでおく」ということで「タタム」とも呼ばれました。「タタム」から転移したのが「タタミ = 畳」です。

鯖街道

12代将軍義晴、13代将軍義輝は三好、松永などとの戦いに敗れて、何度も朽木谷(くつきだに)に逃げ込みます。朽木谷は近畿にお住まいの方でもほとんど訪れることのない場所です。私も、足掛け25年ほど関西に住んでいましたが、訪れた・・・と云うより通過したのは一回だけです。

友人が「若狭の小浜に鯛を釣りに行こう」と誘うので付き合いました。その帰路、「琵琶湖の岸は海水浴客で混雑するから間道の、鯖街道を抜ける」と言うので車窓から景色を眺めただけです。琵琶湖の西岸にそそり立つ比良山地の西側、安曇川が琵琶湖に向けて流れ下る山間の流域です。若狭から京への近道なので、鮮度を要するサバを運ぶために使われた道ということで鯖街道とも呼ばれます。

安曇川(あどがわ)は故郷・信州の安曇野と同じ字を書きますが、ルーツは共に北九州の海人・安曇族でしょうね。古代の磐井の乱で敗れた安曇族が逃げ込んだ場所だろうと思います。若狭湾から山間に逃げ込んだ安曇川族、糸魚川から山奥に逃げ込んだ安曇野族、同族でしょうね。

その意味では、何となく・・・親近感を覚えてしまいます(笑)

この朽木の地侍、朽木氏が流浪の将軍家を支えます。

朽木氏のルーツですが、足利尊氏が室町幕府を開いた当時、その政権での最大の大名だったのが、バサラ大名と呼ばれた近江の佐々木道誉です。この佐々木家が分裂して、北近江の京極家と南近江の六角家に分かれましたが、ともに佐々木家です。朽木家もその佐々木家の枝分かれだと言いますから、将軍家との縁も深かったのでしょう。

ついでに・・・、北近江の京極家は、この当時すでに浅井久政、長政親子によって乗っ取られています。信長の妹・絶世の美女と言われたお市の方を娶るのが浅井長政ですね。この長政の裏切りで窮地に陥った信長が越前から逃げ帰る道筋が「朽木越え」の鯖街道でした。これは後の話です。

舞台回し役としての光秀

ここまでドラマを見てきての感想ですが、今回は通説にこだわらず、最新の歴史解釈を多用していますから毎回のように新発見があります。13代将軍・義輝と三好・松永頭の争いなどを描いたドラマなど、今までには殆どなかったのですが、今回は丁寧に描いています。この先に起きる事件、たとえば義輝将軍暗殺事件や、15代義昭の興福寺からの救出劇などにも光秀を絡ませていくのでしょう。今までに中央政権を執りながら脚光の当たらなかった阿波の三好党や、松永弾正などが描かれるのは楽しみです。