11 人質交換(2020年3月25日)

文聞亭笑一

信長と家康の出会い、そして戦国乱世を秀吉も加えた東海人3人で終焉に向かう行程に乗せる物語は、今までに何度も描かれ、書物で、映像で目にしてきました。

小説の世界では司馬遼太郎や山岡宗八が長編小説を書き、どれもベストセラーになりました。とりわけ、我々の世代では、山岡宗八の「徳川家康」が<経営の教科書>のような扱いになりました。この二人の史観が・・・、常識として記憶に残ります。それを先入観として戦国物語を楽しみます。

先週も大きな動きはなく、十兵衛に失恋したお駒ちゃんと、出雲のお国を想わせる女芸人の絡み、そして信長と帰蝶の蜜月を描いていました。追っかけ記事の、作者の出る幕がありません(笑)

かろうじて、最後の方に竹千代(家康)と織田信広の人質交換の話題が出てきました。

織田信広・・・司馬遼も、山岡宗八も、「さらり」としか取り上げなかった人物なので、私の記憶にありませんでした。改めて調べ直してみました。

第1節 尾張と三河

ドラマにも出てきましたが、織田信広は織田信秀の長男として生まれていますから、信長の兄に当たります。母親が側室であったことから、嫡男とはされませんでしたが、信秀にとっては最初の子であったことと、才能的にも優れた所があったらしく、三河の最前線基地・安城の城主に抜擢しています。

織田信秀は生涯にわたり、北の美濃と、東の三河を相手に戦い続けていました。これだけ戦ばかりしていると、経済が疲弊して自滅するのが普通なのですが、信秀には戦い続けられるだけの経済力があったのです。

その根源は熱田と津島の「市」です。熱田は日本武尊の時代から市が栄えていましたし、津島は木曽川、長良川の川筋と伊勢湾を結ぶ水運の要衝です。津島の市を束ねるのは津島牛頭大王神社ですが、織田信秀は熱田、津島を支配下に収めることで、豊富な資金源を握っていたのです。さらに津島社の御師たちは布教を兼ねて全国を巡ります。この情報網もかけがえのない戦略資源でした。

信長の兄・織田信広は、もっぱら東の敵・松平と今川に向けて働きます。

1540年から1550年まで、「尾三10年戦争」とも呼ばれる小競り合いが続きます。

三河から見れば家康の祖父・松平清康の安城の拠点奪取で始まり、その清康が暗殺され、跡目をめぐってのお家騒動から尾張・織田勢力に付け込まれます。この争いに介入してきたのが駿河・遠江の覇者である今川義元で、その先陣として三河方面の戦線を指揮していたのが雪斎禅師です。

第2節 小豆坂の合戦、安祥(安城)合戦

織田、今川(松平)10年戦争の中で、大きな戦いになったのが6回あります。

第一次、二次の小豆坂戦争と4次に渡る安祥合戦です。

1542年に第一次小豆坂戦争がありました。小豆坂は現在の岡崎市内で、岡崎城にもほど近い場所ですから、織田軍が松平の拠点まで侵入して城攻めを始めたのでしょう。この時は、駿河から2万とも言われる今川の援軍が駆けつけて、織田方が撤退しています。それを追って今川軍は安城にまで攻め込みますが(一次、二次安祥合戦)撤退します。

その後もにらみ合いを続け乍ら小競り合いをしていましたが、局面が動いたのは1548年の3月です。雪斎の率いる今川軍が駿河に撤退した隙をついて、織田信秀の軍が再度、岡崎城に迫ります。(第二次小豆坂の戦)この時の織田軍先鋒が信長の兄・織田信広でした。小豆坂では決死の松平勢に追われて安祥(安城)に引き揚げますが、ここで信秀の本体と合流して反撃し、深追いしてきた松平勢を壊滅させます。

(第三次安祥合戦) この戦で、後の徳川四天王・本田平八郎の祖父、父が討ち死にします。織田軍はその勢いを駆って岡崎に迫ったのですが、雪斎が用意していた伏兵に横槍を入れられて敗北し、安祥に退却します。信秀は、息子の信広を安祥城主として残し、尾張に撤退します。

こんな中で起きたのが「竹千代拉致事件」です。今川の支援を求めるべく、松平広忠が今川に送る予定の竹千代(家康)を海上で拉致し、織田に売ってしまったのが刈谷の水野と、渥美半島の戸田です。仕掛け人が水野信元(家康の生母・お大の方の兄)で、実行犯が戸田家です。戸田と水野・・・実は、江戸期250年に渡り、私の愛する故郷・松本城の城主なのです。大手を振って自慢できる履歴ではありませんねぇ(笑)

第3節 人質交換

1549年3月の第3次安祥合戦では、松平勢に大きな犠牲を払って撤退した今川軍ですが、秋の取入れを終えて11月、二万の大軍を率いて雪斎禅師が三河に乗りこんできました。前回は松平の顔を立て、采配を松平にゆだねたために大きな犠牲が出た反省から、雪斎自らが前線に出て、自ら城攻めの指揮をとりました。

織田方も、急を知って平手政秀を援軍に派遣しますが、今川軍は2万の大軍です。鎧袖一触、援軍は追い返され、安祥城は陥落し、織田信広は捕虜になります。

司馬遼も、山岡宗八も、「軍師・雪斎は、竹千代を取り返すために、織田信広を捕虜にするための作戦を考えた」と書きます。作家のお二方は、なぜか雪斎禅師を戦国のスーパー・ヒーローとして描く傾向があります。少々眉唾の部分もありますが、今川義元の軍師として、卓越した政治家であったのは事実のようです。民生面、とりわけ教育に関してはこの当時の先達ですね。

雪斎は織田信秀に対し『人質交換』という政治交渉を仕掛けます。

当時、こういうことが行われていたのか? 少々疑問に思いNetで「人質交換」を検索してみました。私の期待した記事はほとんど出て来ずに、そういう題名の・・・歌曲関連の記事がゴマンと出てきました(笑)

人質交換という交渉が成立したのは、多分、稀なケースだったと思います。

この後、家康が息子の信康(竹千代)と妻を今川から取り戻す時にもこの手法を使っています。

第4節 織田信広

ともかく、信長の兄・信広は竹千代との交換で尾張に戻りました。信長の配下にあって、親類衆の元締め的役割を果たしますが、どこかに屈折したところがあったらしく、1556年に美濃の斉藤義龍と組んで、清須城乗っ取り事件を画策します。事前に露見して失敗しますが、謀反の証拠がないので生き延び、その後は信長の政治を内側から支えます。

1574年 長島一向一揆の戦で、逃げ場を失った一揆勢の「特攻」を受けて戦死します。