32 四面楚歌 (2020年11月12日)

文聞亭笑一

1570年という年は、信長にとって大厄年になりました。

越前に攻め込むところまでは順風満帆だったのですが、浅井長政が敵にまわったことで形勢は逆転しました。

前回も触れましたが、信長は浅井長政を舐めていましたね。自分の勢いに自信を持つあまり、浅井の事情や長政の心情に配慮が足りませんでした。

その後も信長軍からは身内の裏切りが続きます。将軍義昭、松永弾正、荒木村重ときて、最後は本能寺です。

言葉足らず、説明不足もありますが、天才肌が持つ自己陶酔の欠陥でしょうね。

その意味では病的なところがあって、ヒトラー、スターリンに似たタイプだった可能性があります。また、アインシュタインやエジソンとも似たタイプだったかもしれません。

千草越え

信長をはじめ、越前攻めに向かった将兵の殆どは逃げ帰りました。ただ、京に逃げ帰ったのは半分以下で、兵たちはそれぞれの出身地に一目散で逃げています。

3万の軍勢で越前に向かいましたが、敗け戦の噂に兵糧などの都合がつかず、京にある軍勢は5千程度しかいません。

松永、池田などの近畿の軍勢は、それぞれの根拠地である奈良や摂津に戻ってしまいました。わずか5千の兵で京に残っていたら、ジリ貧になる上に三好の反撃などが想定されて危険です。岐阜に戻って体勢を立て直さなくてはなりません。

ところが、浅井長政に中山道を封鎖されています。米原から先、関が原へ向かえません。

南近江の大津、草津、野洲、八日市辺りまでは、柴田勝家の軍勢と丹羽長秀の軍勢が確保していますが、そこから先は敵地です。強行突破するほどの力は残っていません。浅井兵だけでも、7千の軍勢です。

八日市から鈴鹿山脈を越えて伊勢に出て、尾張経由で帰るしかありません。

道筋は、まずは八風街道があります。八日市から桑名に抜ける現在の国道421号線です。

ところが、この道筋には、南近江から逃げ出した六角佐々木家が伊賀、甲賀の忍者集団などを組織した一揆勢で待ち伏せしています。ゲリラ攻撃が予想され、危険です。

信長が選んだのはその南の千草越え、現在の国道477号線で、狭隘な谷の道です。ここまでは浅井軍も、六角一揆も封鎖できていませんでしたが、六角配下の狙撃兵を潜ませていました。

杉谷善住坊・・・鉄砲の名人です。千草峠で渓谷の対岸で待ち伏せし、信長一行が来るのを待ちます。至近距離からの狙い撃ちですから、外れたのが奇跡的でしたが、一発が肩先を掠っただけでした。

運が良かったとしか言いようがありません。杉谷は鉄砲を二丁用意して、二発撃ったと言われますが、いずれも命中しませんでした。

このあたりは・・・運でしょうかね。杉谷は根来衆の中でも指折りの射撃の名手でしたが、大魚を失します。

姉川の戦

浅井、朝倉を放置していたら天下布武が前に進みません。すでに「信長は朝倉に大敗して、命からがら逃げかえった」という評判が全国に流れ、信長への評価が著しく低下しています。

丹波や播磨などの近畿勢も、いったんは信長に従う姿勢を見せましたが、日和見から敵対へと態度を変えています。播磨の別所長治などがその代表ですね。時間が経つほどに、情勢が悪化します。

その辺は・・・さすが信長、勝負のタイミングを外しません。

越前から逃げ帰って2か月後には浅井攻めの軍勢を繰り出し、小谷城を囲みます。織田軍2万に徳川軍8千が駆けつけます。

一方の浅井方は7千の兵に、朝倉の援軍8千が駆けつけます。数は倍違いますが地の利は浅井にありますし、支城の横山城に2千の兵がいて、戦となれば織田軍の背後を突きます。越前の金が﨑と同じく挟み撃ちの体勢になります。

まず横山城を落とす、・・・と織田軍は考えました。後顧の憂いを失くして決戦する。

横山城が健在なうちに決戦を始め、頃合いを見計らって挟み撃ちにし、信長の首を獲る。

劣勢の軍が勝つためには、敵を混乱させて本陣に切り込み、大将の首を獲る・・・「これ」しかありません。

信長が桶狭間で今川に勝ったのは「これ」の典型例ですし、上杉謙信が単騎で信玄の本陣に斬り込み、馬上から太刀を振ったというのもこの戦法です。

姉川の戦は 浅井5千VS織田2万 朝倉8千VS徳川8千 というダブルスというか…同時進行の二試合で始まりました。

浅井の突進に織田軍は次々と破れ、信長の本陣すら危なくなります。一方の戦力互角の戦いは、徳川の奮戦で朝倉が逃げだします。

これで徳川勢が浅井の後ろに廻りそうになり、さらに横山城を見張っていた西美濃3人衆の軍が浅井軍の横から攻めかかり、浅井はやむなく撤退します。

それにしても・・・織田軍の尾張勢は評判通りの弱さを露呈しました。

明治から昭和の兵隊は「またも負けたか8連隊」と大阪勢の弱さが評判でしたが、戦国で一番弱いと評判になったのが尾張兵でした。

ともかく、姉川の戦は織田軍が勝利し、岐阜と京都の通路中山道は確保しましたが、浅井は北近江で健在です。朝倉も一旦は逃げましたが、いつでも応援に駆けつけます。北からの脅威は無くなりません。

本願寺の参戦

京に戻った信長は、堺、和泉から摂津に進出してきた三好3人衆と戦うことになります。

が・・・その三好方に本願寺が味方し、信長に敵対してきました。これに紀州の雑賀孫一の鉄砲隊が参加し、強大な勢力に膨れ上がります。

「クソ坊主め」

ここから信長の狂気とも言うべき「寺退治」が始まります。

歴史家は「宗教弾圧」という言葉を使いますが、信長は教義などの宗教を敵視していたわけではありません。

沢彦禅師などの参謀もついていますし、政治思想は仏教から指導を受けてもいます。

信長が敵視したのは僧兵です。「仏に仕えるものが武器を持つなど論外」という意見で、平清盛が比叡山の僧兵が練り歩く神輿に矢を射たのと同じ感覚でしょう。

当時は「政教分離」などという倫理観はなかったでしょうが、宗教が政治に口出しするのを体質的に嫌ったのでしょう。

さらに言えば、信長は現実論者、合理主義者、経済重視の政治家と言われます。

その目から見たら市を支配し、座を抱えて、経済的権威を振りかざす寺社は化け物、魔物に見えたのでしょう。

この辺りから・・・信長の大量虐殺が始まります。ヒトラー、スターリンになっていきます。

本願寺顕如・・・日本史を汚した悪党ではないかと・・・     言わずにおきます(笑)