17 さらば美濃(2020年5月06日)

文聞亭笑一

前回か、前々回か、「戦国の争いの元は家督争いである」…と書きました。江戸幕府ができるまで、親の遺産を誰が受け継ぐかに関して決め事がありませんでした。敢えて言えば「能力主義」で、親から見て最も優秀な子孫に地位を譲るというのが武家社会、鎌倉以来の伝統です。

能力主義の難しい所は、色々な分野の能力の内の、どの能力を重視するかです。観方によって評価が分かれます。能力を体育会系で見るか、文理才能で見るか、はたまた芸術才能で見るかで天と地ほどに評価が分かれます。戦国大名にとって文武両道と言うのは理想の姿ですが、なかなかそうはいきません。文武両道に優れるのは百人に一人か、千人に一人でしょう。その上に血筋の問題もあります。血統と言うのも権威の一つ、能力の一つでもあります。

この戦乱の根本原因を取り除くために、後の江戸幕府で厳しく取り締まった制度が「長子相続の原則」です。廃嫡などの余程のことがない限り、長男が家督を継ぐ・・・という法度で、能力主義を廃して年功序列の礎を築きました。更に、家督争いでお家騒動を起こしたら、お家取潰しか、減俸・移封処分の対象となりました。これが、戦国の戦乱が治まった理由の一つです。

長良川の景観

下図は稲葉山城(岐阜城)の天守閣から長良川を見下ろした写真です。流れの真ん中にあるのが鵜飼大橋で、川は右から左へと流れます。

見ての通り、現代の河川はおとなしく直線的に、水量豊かに流れていますが、斉藤道三の時代の長良川は川幅が4~5倍あって、対岸の住宅街は河川敷であったと想像されます。勿論、橋など架かってはいませんし、流れはいく筋にも分かれて曲がりくねって流れていたと思われます。…そうでないと、川が渡れなくなってしまい、長良川の合戦ができません(笑)

城のある手前側が斉藤家の本拠地・稲葉山ですが、当時に天守閣があったとは考えられません。天守閣は、後に織田信長が安土城を築いたときに創案した信長独自のデザインで、安土以前には存在しなかったものです。ですから、現在の岐阜城は安土城以後に建てられたものと考えられ、当時は物見櫓が建っていたのではないかと思われます。

ともあれ、この天守閣から下界を見下ろすと・・・「天下布武」を志す気分になりますねぇ。

雄大な景観です。右手上流には飛騨の高山が連なります。左手、長良川の流れ行く先は尾張から大海原へと続きます。斉藤道三から織田信長へと受け継がれたこの景観が、先週の大河タイトル「大きな国」の姿ではないでしょうか。

この景色を見て、天下布武への夢を描いた人もいる代わりに、豊かさに安堵した人もいました。美濃は山河と美田の桃源郷である・・・とも言えます。この豊かな環境を守り、一国最適を望むのも一つの政策ではありますが、それには交通の便が良すぎました。関西と、関東をつなぐ大幹線・中山道が関が原から木曽へと横断していきます。一国最適・モンロー主義などできません。

長良川合戦

合戦を始める前の情勢分析で、道三側は3000、高政側は1万8千と明らかなっていました。六倍の相手ではいかに策略を弄しても勝てません。近代に、第二次世界大戦での米軍の基本戦略として「ランチェスターの法則」というものが有名になり、企業戦略などにも応用されましたが、「確実に勝つためには3倍の兵力を用意せよ」と言うのが基本でした。

道三vs高政は1:6です。とても勝てる戦いではありません。勝てるとすれば唯一、敵にない高性能の兵器を用意し、籠城して戦うという手があります。当時でいえば鉄砲ですね。 これを100丁ほど用意し、堅城に籠って持久戦をすれば…、尾張からの織田信長の援軍を待って勝つチャンスが出ます。

しかし、鉄砲は用意できません。大桑城は堅固な城でもありません。籠城は難しい。逃げるという選択肢もあります。その為に、帰蝶は越前への逃避ルートを用意しました。

・・・が、敢えて、道三は決戦に踏み切ります。ある種の自殺行為です。時間稼ぎをすれば、尾張の信長が援軍を差し向ける可能性もあり、事実、信長の援軍は尾張を出立していました。なのに…なぜ?

道三は「隠居できないタイプ」「主役しかできないタイプ」だったからだと思います。隠居して、観客席から息子・高政の政治ぶり、婿の信長の動き方などを眺め、訊かれたらアドバイスするという選択肢もあったはずですが、評論家にはなれなかったのでしょう。道三としては、美濃国は高政に任せ、尾張国は信長に任せ、その二人の上に立って「大きな国」の棟梁として、東の今川を牽制しつつ、京を目指す構想を持っていたのではないでしょうか。

その夢が破れた、その夢を理解しない息子に絶望しての突撃のような気がします。太平洋戦争での万歳突撃、集団自殺の原点を見るようで、合理主義者・道三らしくありません。

光秀の場合

実際はどうだったのか全くわかりませんが、勝った斉藤高政の軍には参加していません。参加していれば恩賞はないまでも、明智家が美濃に残ったはずです。

だから…道三の軍に参加していたと想定できます。道三が討ち死にした後の道三勢はバラバラになって逃げます。本拠地に逃げ帰った者たちは、残党狩りで討伐さてます。光秀の叔父・明智光安もその一人でしょう。

光秀が逃げた先は・・・尾張だと思います。東美濃の明智の庄から、妻の実家のある妻木に逃れ、一山越えれば尾張の瀬戸です。尾張のいずれかに潜伏した後に、越前の朝倉を頼っての逃避行ではなかったかと思われます。この辺りは原作者、脚本家の推理、想定を楽しむ場面です。

事実がどうであったかは資料も何もありませんから、小説の世界に遊んでください。

鵜飼

岐阜と言えば、「柳ケ瀬ブルース」や「長良川艶歌」もありますが、圧巻は鵜飼です。平安の昔から伝わる漁法で、鵜匠の皆さんは宮内庁職員の資格を持ちます。

格式が高いのです。