戦国の脇役たち その1 (2020年6月17日)

文聞亭笑一

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」はコロナの緊急事態宣言で撮影が停止し、2,3か月の期間が空白になりそうです。その間を休刊していると・・・再開した時に果たして執筆意欲が湧くものか?…少々不安なので、思いつくテーマをネタに毎週続けてみようかと思いました。

戦国物語は主役を誰にするかでそれ以外はすべて脇役になります。主役は殿様とは限らず、「天知人」などでは家老の直江兼続の方が主役になり、殿様の上杉景勝は脇役でした。戦国を代表する信長、秀吉、家康にしても誰かが主役になれば、脇役に廻ります。今年は明智光秀が主役なので、3人とも脇役ですね。

そういう意味の脇役ではなく「まず、主役になることはない脇役」「その他大勢」の中から紹介したい人物を拾いだしてみたいと考えました。

今川家の人々・・・殿様の今川義元、氏真も、今までのところは主役になることはありませんでしたが、殿様ですからそのうち取り上げられるかもしれません。今回は有名な雪斎禅師や、後に、北条早雲となった伊勢新九郎を除く今川家の家来衆を取り上げてみたいと思います。

岡部元信

今川家の武将として有名なのは、この岡部元信と朝比奈泰朝、孕石元泰が三羽ガラスと言われます。中でも戦功が目立つのは岡部元信です。

今川軍が雪斎禅師の指揮の下で、岡崎まで侵攻してきた織田信秀と戦った1548年の第二次小豆坂の戦が元信のデビュー戦です。織田軍を岡崎城下までおびき寄せて、徹底的に叩いています。この戦で雪斎、義元の信頼を勝ち得て「先鋒」として今川軍の先頭に立ちます。

翌年1549年の安祥城の戦では、敵軍主将の織田信勝を捕虜にして、松平竹千代(家康)との人質交換を実現しました。戦上手・・・という点では今川家第一の戦士でした。

その後、今川家の水軍も任され駿河湾の制海権はもとより、遠州灘を越えて伊勢湾まで進出し、伊勢方面の制海権を奪ったりもしています。海から織田家の財源を圧迫するという「海上封鎖」のような活躍もしていますね。

1560年に桶狭間の戦が起きます。

この時、岡部元信は今川軍団の精鋭を預かって、最前線の鳴海城にいました。

桶狭間で今川義元が討ち死にして、敵中に取り残される形になりましたが、籠城して信長の軍を寄せ付けません。が、今川軍は先を争うように三河へと逃げだしています。鳴海城に踏みとどまっていても、敵中に孤立していては兵糧攻めを受けて、先が望めません。

そこで元信は

「今川のお館の首を返せ。さすれば城を明け渡す」という条件を出します。

城攻めをするだけの戦力のない信長はこの提案を受け、今川義元の遺体と首を棺に収めて城門に届けました。元信はこの棺を受け取り、棺を乗せた輿を先頭に、悠々と鳴海城から退去しました。織田軍も沿道で整列して葬送したと言われます。

尾張を脱出すると「帰りの土産」と織田方の刈谷城を急襲し、城主で、水野信元の弟の信近を討ちとっています。これには今川氏真が大感激して、最高の褒美を与えたと言います。

その後、今川家の重鎮として氏真を支えますが、あまりの厚遇に側近たちのヒガミ、ヤッカミが出て、結果的に氏真から遠ざかります。これが今川家の弱体化を加速します。

1568年 武田信玄と徳川家康が「今川分割協定」を結び、東西から攻め込みます。岡部の居城は武田の領地になり、元信は率先して武田信玄に臣従します。氏真を見限っていたのです。

その後は信玄に従って上洛戦の三方が原の戦などで活躍します。さらに、勝頼の代になると、1573年には難攻不落と言われていた高天神城の攻略に成功し、一躍注目を集めました。武田勝頼の元では殊勲第一の将として重用されます。

1581年に長篠の戦が起きます。この戦で武田方は惨敗を喫し、最前線にあった高天神城は徳川軍に取り囲まれましたが、さすがに難攻不落です。落ちません。粘りますが、兵糧を絶たれ、勝頼からの援軍が来ないとわかって…玉砕攻撃をかけます。

この時、岡部元信70歳、徳川方の最前線にいたのが大久保彦左衛門で、彦左衛門自身が元信に一番槍をつけ乍ら「まさか敵の大将が最前線に出てくるはずがない」と、首を獲るのを部下に任せて城へと向かい、手柄を立てそこなったと「三河物語」に書き残します。

ともかく、岡部元信は戦いにめっぽう強い武将でした。軍略も雪斎に学び、信玄に学び、そして武田軍参謀の山本勘助などとも交流があり、駿河一の軍人でした。

高天神城陥落戦では、駿河三人衆の一人・孕石元泰も城にいて、徳川軍に降伏します。

多くの城兵は許されて徳川家に召し抱えられましたが、孕石だけは切腹を命じられます。

「なぜ、彼だけが処罰か?」ですが、家康が駿府での人質時代に、その人質屋敷が孕石の屋敷と隣同士で、少年・竹千代は随分とバカにされたり、虐められたりしたようです。家康は子供の頃から鷹狩が好きだったらしく、飼っていた鷹が隣家の孕石家に糞などを落とし、それが原因で叱られることが多かったようです。

ともかく、家康は「孕石、あいつだけは許さん」と、積年の恨みを晴らしたようです。

岡部のほかにも「戦国三駿河」と呼ばれた朝比奈泰朝がいました。朝比奈家は鎌倉以来の名門です。とりたてて戦功などはありませんが、今川家の重鎮として常に殿様の傍にいます。

戦国三駿河・・・とは、戦国時代に「駿河守」を名乗った有名人のことで、今川家の朝比奈駿河、武田家の板垣駿河守信方、毛利家の吉川駿河守元春を指します。いずれも主家を支えた名家老、名脇役ですね。朝比奈駿河は軍人と言うより政治家でした。

有名・・・という意味では三河の鵜殿長照もいます。この人は今川義元の妹婿で、今川政権の三河統治の責任者でした。政治も軍事も、能力的にはイマイチだったようですが、姻戚関係を強みに三河に君臨していたようです。

桶狭間の戦では、岡部元信の鳴海城と並んで大高城を任されていましたが、「桶狭間で義元討たれる」の報に、一目散で蒲郡の居城に逃げ帰っています。自分の支配下にいた松平勢(家康)などのことは念頭にもなく、そのお陰で家康は岡崎城に向かい、独立を勝ち取れたのかもしれません。皮肉にも徳川家の恩人とも言えます。

その二年後、1562年に蒲郡城は徳川家康に攻められます。あえなく落城して長照は討死、息子二人は人質となり、駿府に残っていた家康の妻や息子(信康)との人質交換の材料にされます。・・・が、この辺りは勝者・徳川の記録ですから、本当かどうかは???です。