18 越前朝倉(2020年5月14日)

文聞亭笑一

先週号に「さらば美濃」というタイトルを使いましたが・・・ 一週早すぎました。

今週こそが「さらば・ふるさと」の逃避行でした。

光秀一行はどういうルートで越前へと逃げたのでしょうか。女、子供連れでの逃避行はなかなかに難しく、とりわけ戦の後は、残党狩りや密告で金を稼ごうという輩もいますから、大人数での目立った行動は無理でしょう。

光秀と左馬之助は先に越前へと逃げ、女たちは伊呂波大夫の旅芸人の一座に紛れ込んで・・・ということが考えられます。

いずれにせよ、まず逃げ込んだのは妻・煕子の実家である妻木の里ではなかったか?と思われます。旅支度など、明智城から逃げ出す時には整えるいとまがありません。

妻木から先の道筋は二通りあります。

一つは郡上八幡を通るルート(妻木⇒土岐⇒可児⇒郡上八幡⇒(国道158号)⇒油坂峠⇒越前大野⇒一乗谷)

もう一つは 根尾谷を通るルート(妻木⇒土岐⇒可児⇒根尾谷 ⇒(国道157号)⇒温見峠⇒越前大野⇒一乗谷)

どちらかわかりませんが、当時の越前への本道は郡上八幡ルートだったようで、土岐頼純などは越前との間を逃げたり、戻ったりと、何度も往復しています。

朝倉義景

多くの戦国小説で、義景は「優柔不断で、実行力のない男」として描かれます。確かに勢力拡大のチャンスを何度も逃します。

美濃とても、道三と土岐一族が揉めている時に軍勢を送りこめば、実効支配が可能でした。土岐一門は朝倉を全面的に信頼していたようですから、それなりに人徳が有ったのでしょう。

また北近江の浅井長政も「織田と朝倉」を比較して、最終的には朝倉を選びますから、信用度が高いということになります。

浅井と共謀して信長を挟み撃ちにした時も、追撃を途中で辞めてしまい、秀吉、光秀、家康と言った後の「大物」を討ちそこないました。

それよりも、何よりも、朝倉を頼ってきた足利義昭を利用して上洛しなかったことが低い評価の原因です。欲がないというか、自分の能力を自覚していたというのか、政治家でも、軍人でもなかったのでしょう。いわゆる「いい人」「頼られる人」だったと思われます。

朝倉義景は戦国大名の他の有象無象に比べれば官位が高いですね。従四位下・左衛門督です。他の大名家はせいぜい従五位下です。また、殆んどの成り上がり大名は自称しているだけで幕府や朝廷からの正式な任命ではありません。

織田家の「弾正忠」もそれですし、斉藤山城守も自称です。余談ですが、信長は一時期「上総守(かづさのかみ)」を名乗ったことがあります。

上総、常陸、上野は朝廷の直轄地で、その地のトップは「守」ではなく「介」であることを知らなかったからです。公家、多分山科卿あたりに指摘されて、慌てて織田上総介に改名していますね(笑)

義景の「義」は13代将軍義輝からもらった一字です。幕府からも信頼されていましたね。

義景が中央に進出できなかった、しなかった理由は、隣の加賀が一向一揆に乗っ取られて、更に、越前へも門徒が勢力を伸ばそうとする動きがあったからかもしれません。

一方の信長は華々しいですねぇ。戦歴をまとめてみました。朝倉とは5回、戦います。

教科書に載っているのは赤枠部分ですね。

この先の光秀

物語の展開がどうなるのか? 歴史にない部分を脚本家が創作していきますから見当が付きませんが、次に光秀が歴史資料に登場するのは1567年ころです。

奈良の興福寺を脱出し還俗して、15代将軍を自称する足利義昭が朝倉義景を頼って越前に落ちてきてからです。

長良川の戦と、それに続いた明智攻めが1556年ですから、まだ10年あります。

一乗谷では言え、屋敷は与えられていたようですが「仕官(就職)」はしていなかったようで、客分、居候と言った待遇でした。寺子屋のようなことをしていた・・・と云う記録もありますし、全国を武者修行のように訪ね歩いた・・・という説もあります。全国は眉唾にせよ、越前と京との間は何度も往復していたのではないでしょうか。

将軍・足利義輝と三好長慶、松永弾正などとの確執に巻き込まれていくストーリなども想定されます。

10年後に信長の家臣になってからの活躍は、豊富な知識と人脈がなくてはできない仕事でしたから、この間に築き上げたものと思われます。

この間、信長は尾張内部の反乱分子を攻め潰し、服従させて内部を固め、桶狭間では乾坤一擲の大勝負をします。こちら、帰蝶と信長の方が・・・楽しみの多いストーリになりそうですね。

いずれにせよ、毎回の予告編を見るまで先が読めません。