31 浅井の寝返り (2020年11月05日)

文聞亭笑一

天下布武、覇権を目指して信長が動き始めます。

京を制圧していますから「玉」は信長の手にあります。天皇も、将軍も、信長の支えなしには存続できません。どちらも財政が回復して、ホッと一息といったところでしょう。

しかし、「信長さんありがとう」などとは決して言わないところが公家のしたたかさ、しぶとさ、嫌らしさです。

あくまでも上位目線で、横柄に振る舞います。お公家さんたちは、中臣鎌足以来の藤原一族ですが、日本史の千年を牛耳ってきました。

彼らの伝統的権威には、家康も、明治新政府も手出しできず、これに鉄槌を食わせたのは敗戦後の日本を支配したGHQでした。

内部改革ができず、外国の力を借りたというところが「日本という国」の一つの特徴かもしれません。

朝倉攻め

信長が三好一族の根拠地である阿波を攻めず、朝倉を攻めたのには理由があります。

一つは過去からのいきさつで、朝倉の越前は信長の本拠地である美濃と国境を接しています。国境の山を越えれば隣同士で、過去に何度も兵が行き来しました。

美濃の守護であった土岐家は、国内での争いがあればいつも越前に逃げ込んでいました。美濃の騒乱には尾張、越前、近江が三つ巴になって介入していたのです。

ライバルと言うのか、目の上のたん瘤と言うのか、目ざわりな勢力です。岐阜の安全を確保するには真っ先に排除すべき勢力です。

二つ目は、将軍家と朝倉との交流に警戒感を抱いていたことです。将軍・義昭としては信長の傀儡にされないためにも、その対抗勢力が欲しいのです。

兄・義輝の失敗は、三好一党だけに勢力が偏ってしまったことでした。その為に意のままにならず傀儡化されてしまったのです。

そうならぬために、織田と朝倉を競わせ、武田や上杉とも交流をとって、彼ら遠方の大名たちを第三勢力として支配下に置くことを画策していました。

この辺りのストーリ、戦略を描いていたのは義昭側近の三淵、細川の兄弟でしょう。彼らにとって信長は道具の一つだったでしょう。

信長はそういう将軍と取巻きたちの、浮気の相手を叩きつぶしたかったのでしょう。テレビでは片岡鶴太郎が演じる摂津晴門が一手に悪役を引き受けていますが、義昭と満淵・細川兄弟、それに摂津などの取巻き衆は一心同体なのです。

彼らが信長に警戒感を示すのは、公家や将軍家が得意としてきた「位討ち」を拒否されたことです。

位討ちとは官位、名誉を与えてありがたがらせることですが、合理主義者の信長は官位などという虚名をありがたがりません。義昭が用意した「副将軍」などは蹴飛ばしてしまいます。

そういう非常識な男は排除したいのが義昭一派の思惑です。細川藤孝も将軍一味です。これをしかと覚えておいてください。

本能寺の変の後、細川が明智を裏切るのも、その行動の根はここ、足利本流意識、上流意識にあります。

浅井長政の立場

今回のドラマでは浅井長政が登場してきません。絶世の美女と言われた信長の妹・お市を妻に迎え、茶々、初、お江と三人の娘に恵まれた果報者ですが、上洛戦では目立った活躍をしていません。信長の客分の扱いで、近江でも、京の界隈での戦でも観戦者の立場でした。

長政がこの待遇をどう思ったか?

兄・信長は自分を大切に思ってくれている・・・と、善意に捉えたかもしれません。

半面、兄・信長は自分を信用していない・・・と、疑問を持ったかもしれません。

その状態のまま、北近江に帰り京の様子を眺めていると、信長は「若狭の賊を退治する」との名目で琵琶湖の西岸を北上していきます。若狭に行くのなら、琵琶湖の西岸は近道ですから不思議ではありませんが、その軍勢に徳川の名があって、自分には音沙汰ありません。

近江にとって若狭は隣国です。織田軍が通過していく通路は浅井家の支配地でもあります。それなのに…断りすらない。おかしい・・・、怪しい・・・、調べます。忍者に織田軍の動向を調べさせます。

織田は若狭攻めを口実にして、越前に向かっています。目的は朝倉攻めだとわかります。

「信長は自分を信用していない」という疑念は「信長は自分を裏切った」という怒りに変わります。「浅井は創業時に世話になった朝倉への義理立てで裏切った」というのが通説ですが、「信長は俺を信用してくれなかった」という落胆と怒り、そちらの方が大きな動機だったと思います。

この後も数年に渡って信長を苦しめるのも、その怨念からだと思います。

人の行動は「智・情・意」の三つで動きますが「情」に欠けるのが信長の欠点です。

合理主義者ですから情に流されず、智に働きすぎて、意地を通して、窮屈になりましたね。

金ヶ崎の退き口

破竹の勢いで越前に攻め入った織田軍でしたが、浅井の裏切りは衝撃的情報でした。退路を断たれたら、地の利のない所では勝てません。拙くすれば全滅します。

それは・・・桶狭間で今川義元を倒した信長自身が一番良く知っています。敵は、信長一人の首を狙って襲ってきます。

「ヤバイ、逃げろ!」信長は瞬間的に決断したでしょうね。

道案内を買って出たのは松永久秀、土地勘があるのと「生への執着」の強い人です。こういう人が同行していたのが信長の幸運でした。

世に言う「朽木越え」です。朽木谷の領主・朽木元綱は浅井家の与力でしたが、松永の脅迫的説得で織田に寝返ります。これで関門を突破しました。

退却戦の殿軍を買って出たのは摂津の池田勝正と明智光秀の幕府軍3千、それに徳川家康でした。信長は家康の鉄砲隊だけを借り、秀吉に殿軍の指揮を指令します。

殿戦・・・撃っては逃げ、逃げては撃つ、2百丁の鉄砲隊を指揮したのは光秀でした。

襲ってくる朝倉軍の騎馬隊を狙って鉄砲が一斉射撃をします。勢いの停まった所に秀吉、池田の騎馬隊が攻撃をかけ、歩兵を蹴散らして、それから一散に逃げます。

勿論、鉄砲隊はそれよりも先に逃げて、適当な位置で一斉射撃の準備をしています。

体勢を立て直した朝倉軍が追跡し、光秀が指揮する鉄砲が火を噴き、秀吉の騎馬隊が突撃し、そして逃げる。

これを何十篇、繰り返したのでしょうか。鉄砲の銃身は焼け、騎馬隊は消耗していきます。ともかくも・・・逃げに逃げて京にたどり着きました。

信長が無事に帰京した・・・これは義昭将軍一派には誤算だったと思います。

「信長は生還しても岐阜に逃げ帰る」と読んでいたのでしょうが、京に現れました。

将軍一派の動きは「見破られた!」と不安になります。信長には海千山千の松永久秀が従っていて、京の公家的な政治工作はバレバレかもしれません。

いや、ばれている・・・と、アンチ信長と敵対行動を鮮明にして行くしかなくなりました。