27 信長の博奕 (2020年10月28日)

文聞亭笑一

蜻蛉釣り 今日はどこまで 行くのやら・・・加賀の千代女ではありませんが、「麒麟が来る」のストーリがイマイチ読めません。

そこで・・・ちょっと脇道にそれた話をしておきます。

戦国末期になると中小の大名が淘汰されて、100万石クラスの大大名が現れます。

そう言った大名家には、コンサルタントというのか・・・領主を補佐する僧侶が目立つようになります。

そういう軍師、教育者の僧侶を多く輩出したのが臨済禅の妙心寺派でした。

臨済宗・妙心寺派の戦国参謀たち

妙心寺35代大住持=雪斎禅師・大原雪斎 ご存知の通り今川義元の軍師であり、徳川家康の教師でもあり、甲相越の三国同盟をまとめた大政治家、外交家です。

この人があればこその今川家でした。元は、妙心寺派ではなく、幼少期の義元と共に建仁寺で修業をしたのですが、孫子などの戦略書籍や知識は妙心寺に多かったようで、妙心寺に移り大住持(教団のトップ)に登っています。武田信玄の軍師になった山本勘助は、駿河の雪斎と同じ一族の出身のようです。

38代大住持=希庵禅師・希庵玄密 美濃の生まれで岩村の大圓寺にいますが、武田信玄と親しく、甲斐の恵林寺をたびたび訪れています。信玄はこの人に弟子入りしたとも言われます。

また、信長と信玄の間を取り持ち、信玄の美濃侵略を制止したとも言われます。岩村は光秀の生まれた明智の庄にも近く、光秀も幼少期に希庵から教えを受けたことがあったようです。

しかし、信玄の結核罹患を察知してしまい、そのことを隠すため武田勢に暗殺されます。

39代大住持=沢彦禅師・沢彦宗恩 美濃の人で希庵玄密の弟子。織田信秀に招かれて信長の教育係になります。そして軍師…というより相談役。「天下布武」や「武の七徳」など信長の基本政策を立案したのは沢彦禅師だと言われます。

また、岐阜の命名に際して「岐山」「岐陽」「岐阜」の三択を用意し、信長に選ばせたとも言います。

43代大住持=快川禅師・快川紹喜 美濃の人で希庵玄密の弟子。光秀は若い頃に快川禅師に教えを受けたと言われます。

今回の大河では、光秀の敵役のように描いている稲葉良通(一鉄)も、若い頃は快川の弟子だったことがあり、光秀とは兄弟弟子の関係にもなります。

快川は後に武田勝頼に招かれて甲府の恵林寺の住職になり、武田滅亡の折に信長の言うことを聞かず、「心頭滅却すれば火もまた涼し」という辞世を残して焼き殺されています。

快川禅師の弟子には、伊達政宗の教育者・軍師になった虎哉禅師・虎哉宗己がいます。

また、58代大住持になり、後陽成天皇から国師の称号を与えられた南化玄興も弟子です。

宗派は違いますが、毛利の軍師・安国寺恵瓊なども、禅宗・京都東福寺の僧侶出身です。

「天下布武」と「武の七徳」

「天下布武」は沢彦禅師が印証として使うように信長に提案したものですが、中国の古典である春秋左氏伝の「武の七徳」をベースにしたもので、戦のない理想社会を想定しています。

「暴を禁じ、兵を治め、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和せしめ、財を豊かにすべし」

これだけではわかりにくいですね。

「武力を以て統治するのは、銘々が勝手に武力行使しないように牽制するためであり、武器は取りあげた方が良い。

国家の統一を保ち、君主の功業を知らしめ、人民の生活を安定させ、大衆を仲良くさせ、経済を発展させなくてはならぬ」

これでもイマイチ・・・。

信長が比叡山を焼き討ちし、長島一向一揆を焼き殺し、宗教弾圧とも言える行為を繰り返した背景は宗教を否定したのではなく、「宗門が兵力を持つのは宗教の堕落である。

兵を抱える寺は寺ではない。僧兵を絶滅させる」という考え方にあったようにも思えます。

朝倉攻め

信長は近畿から三好勢力を追い払いました。近隣の中小大名は将軍に忠誠を誓います。これで一件落着なのですが・・・越前という京の近辺に大勢力が残るのは気がかりです。それに、越前朝倉は美濃を巡る政争で、何度か織田家に敵対してきています。

「将軍の上洛命令に従わない」という理由で「朝敵として退治する」という名目が立ちます。しかし、信長は浅井長政を味方に加える条件として、「朝倉とは戦わない」という契約をしていました。朝倉を攻めるのはこの約束には違反します。なのに…浅井に無断で朝倉攻めを始めます。

考えられるのは

①信長は浅井長政を舐めていた? 家康同様に弟分として扱っていた。兄に従って当然・・・

②朝倉家が滅亡してしまえば、浅井が反対する理由が無くなる。 結果を先に出す

③浅井との約束など眼中にない

③はなかったようで、やっぱり気にしています。京を出発する時には「家督相続で混乱している若狭を鎮める」と称して、越前への本街道・北陸道を通らず、湖西からの若狭道を使って越前に向かっています。浅井長政を騙す手口ですね。心中は②だったでしょう。

信長という人は結構バクチ的な戦略を用いる人で、成功もあれば失敗もあります。が・・・信長の遺産をもらった秀吉も家康も「信長の失敗」は歴史に残しません。「信長さま」と神棚に祀りあげて、成功事例ばかりを記録に残しました。ですから信長は稀代のスーパーマンです。神です。

朝倉攻めの軍勢は尾張・美濃の織田本隊に徳川軍が加わります。さらに松永弾正など近畿勢が加わりますから3万を越えます。力攻めで、各個撃破で押していけば、信長の思惑通り一月もしないうちに一乗谷を壊滅できたでしょうが、味方の浅井が裏切ります。信長の後方を扼します。

「お市の方から両端を縛った小豆袋が届き、浅井の寝返りを知った」と言うのが通説ですが、実際はお市の方に付けておいた忍びの者が小谷城を抜け出し、信長の陣に駆けこんだのでしょう。

ここから有名な「金ヶ崎の退き口」という合戦になります。信長の逃避行・・・朽木越えの難路を駆け抜けるのを主題にする物語があります。

こちらでは、松永久秀が活躍します。

秀吉、光秀、家康の三者が、殿軍(しんがり)として、協力し合いながら消耗戦を戦う場面になります。

それぞれの部隊の鉄砲による一斉射撃が威力を発揮します。命中率抜群の明智の鉄砲・・・が威力を発揮したようです。

ですから、他の部隊の鉄砲隊の命中率が低くても。発射音が起きるたびに朝倉の追撃は停止します。撃っては逃げ、撃っては逃げる・・・逃亡兵も多く出ましたが、光秀、秀吉、家康といった士官、将官クラスは全員退却ができました。

ここから先・・・信長と義昭の間に亀裂ができ、それが広がっていきます。