37 信玄上洛(2020年12月17日)

文聞亭笑一

元亀3年(1572年)信長包囲網の中心である武田信玄の「風林火山の旗」が京を目指して甲斐から信濃を通過し、遠江へと進出してきました。

将軍・義昭の政治工作が上手く行き、信玄のライバルである越後の上杉謙信が、信玄の後方を脅かさないという密約が成立したからです。

とはいえ、関東の北条への工作は十分ではないため、駿河兵は北条に備えて待機します。

この時の信玄、健康上に大きな不安を抱えていました。信玄が罹っていたのは、労咳、いわゆる結核です。当時は治療法がありません。温泉で温める、ニンニクや朝鮮ニンジンなどの強壮剤で病気の進行を遅らせるのが唯一の治療です。

先日のNHK番組で「珍しい苗字」と言う番組がありましたが、「薬袋」さんを何と読むのか?答えは「ミナイ」さんです。

信玄の薬袋を拾った農夫に「中身を見たか?」と問い、「見ない」と言い張った農夫に「薬袋=みない」の苗字を名乗らせたという逸話があります。

信玄は病気を隠すことに躍起であり、信玄の病気に気づいてしまった恵林寺の住職・希庵玄密を暗殺しています。これが上洛戦の寸前のことでした。

信玄は自ら「余命いくばくもない」と悟っていたと思います。

結核の重症患者が冬場の軍旅に出るのですから、死ぬ覚悟だったと思います。

最後のチャンスとして、京の都に武田菱の旗を掲げたかったのでしょう。

それとも…京に行けば優秀な医師がいて、病を治してくれる可能性を頼っていたのでしょうか。

武田騎馬軍団

戦国最強と言われた武田騎馬軍団ですが、それを組織できたのは信玄が信濃の国を手に入れたからです。

佐久地方や伊那、木曽地方は奈良の都の時代から「牧」として馬の生産をしていました。他の、どの戦国大名よりも豊富な戦力資源を持っていたといえます。

戦力としての馬・・・皆さんはピンと来ないと思いますが「戦車」に匹敵します。

人間より大きく(約3倍)、速力も早い動物が自分に向かって来たら・・・どうしますか? 槍や刀では止められません。

逃げて、道を開けます。槍襖を敷いて待ち構えていても、魚鱗陣で束になって突っ込んでくる騎馬隊には逃げるのが精いっぱいです。

当時の軍隊の編成は「騎馬兵1+歩兵9」程度が標準でしたが、武田軍は「騎馬兵3+歩兵7」ほどに、馬が多いのです。馬とは車、戦車・・・戦国機動隊です。

織田政権の東の備えは徳川家康です。8千の軍勢で武田騎馬隊を迎え討ちますが、信長は3千の援軍しか派遣してきません。

武田軍も2万人くらいですから人的戦力では戦えぬ数ではありませんが、馬の数を比較すれば武田軍6000:徳川・織田連合1200・・・5:1です。

三方が原の戦

今回のドラマではあっさりと「三方が原で家康軍が信玄に打ち破られた」と言うナレーションだけで終わりますが、徳川、織田連合軍の完敗でした。

戦力でも劣勢の方が陣形、作戦でも間違えましたから・・・やられ放題で、家康が生き延びたことすら奇跡的でした。有名な「せつな糞」の逸話にある通り、家康は恐怖のあまりに失禁していたのです。

この戦の武田方の作戦参謀が真田昌幸でした。何年か前の大河ドラマの主役に取り上げられた「真田丸」の真田幸村や真田信之の親子です。

家康を誘いだして完膚なきまでに叩き潰しています。真田VS徳川の戦は三方が原、関が原(上田城)、大阪の陣と・・・徳川の3連敗でした。

義昭将軍立つ

武田軍の進撃に「時は今…」と義昭将軍が信長追討の旗を上げます。

狙いは信長の本拠地である美濃と尾張・・・ここへ包囲網の戦力を集めます。坊主育ちの義昭に作戦能力があったとは思えませんから、細川藤孝の兄、三淵藤英の作戦でしょうか。

南からは信玄率いる武田軍本隊が尾張経由で迫ります。それに呼応して長島一向一揆が立ち上がります。東からは武田の別動隊・秋山信友が迫ります。

北からは朝倉義景が白山越えで迫ります。そして西からは浅井長政、六角承禎などが包囲し、京から将軍が「征伐」に乗りだします。

ここで義昭にとって誤算だったのは明智光秀と細川藤孝の動きで、細川は動きませんし、明智は将軍方に付いた近江の城を攻めます。将軍からしたら「明智の裏切り」と映ったでしょうね。

この時の近江の国での戦闘は熾烈で、明智軍は湖西地域で死闘を繰り広げていますし、湖東の柴田勝家は「甕割柴田」の異名を残すことになる観音寺城での籠城をしています。

そして秀吉は、小谷城から岐阜を窺う浅井長政に備えて関ヶ原の入り口を守っていました。

後に信長の後継者を狙い、三つ巴の争いをする光秀、勝家、秀吉は、近江の国の西、東、北を守って、互いに協力しあいながら必死の防戦に努めていました。

槙島城に幕府の終焉

義昭にとって予期せぬ出来事が起こります。上洛中の武田軍が三河・野田城から動かないのです。

信玄が尾張に入ったら、北から南から、そして本隊の将軍が西から美濃に攻め入り、信長を討って、将軍による、将軍のための、将軍の政治を始めるはずでした。

一方で「信玄倒れる」の報は織田方、徳川方には漏れ出していました。

信玄が倒れたのが三河です。如何に秘密のベールで隠しても、異常は土地の者にはわかります。

浜松城ですら無視して先を急いだはずの武田軍が、野田城のような小拠点にこだわるのが怪しいのです。戦略的意味が全くありません。「武田内部で、何かあった」と容易に推察できます。

「何かとは何か?」  想像するのは消去法ですね。

内乱、方針の齟齬・・・にしては静かに過ぎます。軍律は維持されています。

幕府、朝廷などとの打ち合わせや、将軍一派との作戦調整・・・にしては長期すぎます。

「退却」と言う行動となって…信玄の病に思いが及びます。

武田軍の退却に、浅井、朝倉など、包囲網は出動を回避します。そうなると・・・義昭将軍は裸の王様です。

信長の逆襲を怖れて槙島城に立て籠もります。が、時間の問題ですね。将軍を支援する大名はなく、降伏。捕縛されて高野山に追放されます。

が、これが信長の大失敗でした。義昭が生きているということは義昭が征夷大将軍のままです。

その後、朝廷は信長が何度申請しても「前任が辞職していない」と信長に将軍宣下をしません。

このことが朝廷と、信長の不信感を招き、本能寺の変への伏線となっていきます。

正親町天皇、近衛前久・関白など・・・公家が暗躍を始めます。光秀が巻き込まれていきます。