10 にっぽん がんばれ!

文聞亭笑一

最近は新幹線網が充実してきて「列車での長旅」が、国内では殆どなくなりました。

さらに、航空路線が充実してきましたから、国内では3時間あれば…かなりな距離を移動できます。

四三と弥彦のシベリア鉄道・・・7日間はとんでもなく長い、退屈な時間であっただろうと思います。

現代の我々がヨーロッパ諸国を訪ねる際には、せいぜい8時間から10時間程度の飛行機への搭乗です。

それでも「疲れた」「エコノミック症候群だ」と弱音を吐きます。ヤワですね。

ところで、先週のチコちゃんを見ていたら「日本はニホンかニッポンか」という問題が出ていましたね。

「気短な江戸っ子がニッポンを短縮してしまった」というのが答でしたが、どっちでもあり・・・と云うのが政府の公式見解でした。

「日本橋」が、東京はニホンバシと言い、大阪ではニッポンバシと言います。改めて言われると・・・「ああそうだった」と、今更ながらに、その差に気が付きます。本来は聖徳太子の「日いずる処の天子…」という文面から「日の本、ヒノモト」という言い方でしたね。

そして海外に出る時のパスポートにはJAPANと書いてあります。まぁ、国籍が分かればいいわけで、気にすることもないと、いい加減に過ごしていますが「そういう態度だから愛国心が育たないのだ」と強弁する人もいます。

プラカードの国名表記

四三と弥彦が、日本人として初めて出場するストックホルム・オリンピックで、日本選手団が 大揉めに揉めたのがプラカードの国名表記でした。

監督の大森兵蔵は、アメリカ仕込みの国際派ですから「JAPAN」が当然だと思っています。

が、これに真っ向から反対したのが金栗四三でした。「日本と漢字にすべきだ」と主張します。

イギリス人が勝手につけたJAPANなどという表記を認めるべきではない、欧米に迎合することはない。我々には誇るべき東洋文化がある…という主張で、一歩も譲りません。

なかなか結論が出ませんでしたが、遅れて到着した嘉納治五郎の妥協案というか、折衷案で、何とか納まりました。

それは、日本のローマ字表記「NIPPON」です。

その後のオリンピックにはJAPANで出場していましたから、最初で最後のNIPPONでした。四三はこのプラカードを掲げて入場行進します。

日本選手団はNIPPONと表記しましたが、ストックホルムの大会関係者はJAPANで準備を進めてきています。勝手に国名表記を変更されても即座に対応できません。従って入場の順番はアルファベット「J」のままです。観客から見たら違和感があったでしょうね。

四三も弥彦も、観客の感じ方などには委細構わず「日本男児」「大和魂」の生きに燃えていました。ただ、監督の大森兵蔵の結核が悪化して練習に付き合えなくなってしまったことから、練習タイムの計測すらできなくなってしまいました。

それが・・・レースでのペース配分をどうするかという作戦上の情報不足になり、ハンデキャップになってしまいました。

長旅による疲れ、食べ慣れない食事による栄養不足、慣れない白夜、言語障害から来るストレス、コーチ不在を含めた練習環境の悪さ、心・技・体…いずれをとっても悪条件でした。

よーい、ドン

オリンピックの入場行進は晴れの舞台です。現代の入場行進では、プラカードを持つのは開催国の乙女ということになっていますが、ストックホルム大会では選手団の一員が、国名を掲げて入場しました。

日本選手団は、プラカードを持つのが金栗四三、日章旗を掲げるのが三島弥彦、選手は二人しかいませんし、コーチ監督の大森が病人では二人でやらないと代わりはいません。

オリンピックの入場行進というのは、なぜか気持ちが高揚しますね。入場する選手団もそうですが、観客席にいても、自国の選手団が入場すると・・・背筋に寒気が走る感覚があります。

まず、三島弥彦が出場する短距離の予選から始まります。

100m予選、200m予選・・・三島は自己新=日本新の走りでしたが、結果は最下位でした。

400m予選は疲れと、意欲の減退から棄権してしまいます。世界との差、欧米との差を見せつけられた苦い経験になりました。

一方の金栗四三のマラソン、こちらもアクシデント続きでした。

スタート地点へは車移動の予定でしたが・・・迎えの車が来ません。大騒ぎをして、何とかスタート点に到着した時は、既にスタート直前でした・・・が、何とか間に合います。

参加選手は68名、アジアからは四三が一人だけです。

号砲が鳴り、スタートします。四三のマラソンスタイルはイーブンペース・・・つまり42,195㎞を同じペースで走りきろうという作戦なのですが、欧米選手のスタイルはスタートから全力疾走で入り、好位置をキープするというやり方でした。外国人との初手合わせで、相手のやり方を知らない金栗は、スタート直後はビリになり、慌てます。

「置いていかれてはならじ」とオーバーペースになり、得意の呼吸法「スースー・ハーハー」どころか「ハーハー」ばっかりになってしまいました。それでも何とか食らいつき、後方から追い抜きをかけながら、中間点の21㎞地点では17位まで順位を上げます。

・・・が、金栗四三の健闘もここまででした。

固い舗装道路、白夜による寝不足、気温35度を超える猛暑・・・この三重苦が、容赦なく四三の体力をそぎ落としていきます。とりわけ気温の上昇は堪えたでしょうね。

26,7㎞地点で、ついにコースを外れ、森の木陰の中で昏倒します。気を失ってしまいます。

明らかに熱中症の症状です。そのまま誰にも発見されなかったら生命も危なかったのですが、通りかかった農夫・ジェン・ペトレさんに発見され、救助、介抱されて、事なきを得ました。

四三もリタイア組ですが、ストックホルム大会のマラソンでは、参加68名中34名が棄権、そのうち一人は死亡してしまいました。四三も危うく死亡者リストに入るところでしたね。

ただ、四三は棄権した34名の中に入っていません。棄権の届けを出さなかったので、記録は「行方不明」となり、競技が終了しても「走行中」の扱いになってしまいました。このことが、後にとんでもない記録を産みます。・・・が、それはその時の話。

失意の帰国

四三も弥彦も・・・世界の壁にはね返されて失意の帰国になります。が、ただ一人、嘉納治五郎だけは意気軒昂でした。

「参加することで諸外国の技術のレベルを見ることができた。彼らと戦うことで日本のスポーツ界が、世界への第一歩を踏みだしたのだ」

選手団が神戸港に帰国した日は、明治天皇が崩御した喪中です。出迎えすらありませんでした。