05 かけっこ

文聞亭笑一

先週の放送から、いよいよ四三のランニング人生が始まりました。目標は「マラソンでオリンピックに出場する」という所におきます。

とはいえ、マラソンの何たるか、オリンピックに出るということの困難さは全くわかりません。

国内で予選会をやって、優秀な成績を上げれば出場できる・・・だろう? という程度の認識です。

ところで、ふと、ランニングとジョギングの違いは何だ?という疑問が湧きました。

何となく、「ボーっと」わかっているようで、詳しく分かっていないので、チコちゃんに叱られる前にWikipediaのお世話になりました。

違いは「本番」と「練習」みたいな関係ですかね。

一生懸命走るのがランニングで、身体をほぐす、温めるのに走るのがジョギング

陸上競技

現代、平成の人間はマラソンも、駅伝も、トラック競技も、その違いをすべて知っていますが、四三の時代の人々は、果たしてどのような知識レベルだったのでしょうか。

ランニング競技も数々ありますし、その呼び方も様々です。正式には「○○m競争」「○○ⅿ障害・ハードル」などと云いますが、我々の運動会の頃は「徒競走」と呼んでいました。

さらに、もっと一般的には「駆け比べ」それが訛って「かけっこ」ですね。

マイナーな話題になりますが、私の故郷(長野県・中信)では徒競争のことを「とびくら」と言っていました。

方言では走ることを「飛ぶ」と言います。飛脚の走るのも「飛」という字を使いますからねぇ。あながち意味のない表現ではないと思います。飛び比べ・・・短縮して「とびくら」または「とびっくら」です。

こういう方言は聞いてみるまで分かりませんね。学生時代に面白い事件?事故?がありましたので紹介します。

私の行った学校は地方大学ですから、地元出身の学生が過半数を占め、学内での標準語は「信州弁」でした。

県外、とりわけ関東勢、関西勢にとっては「わけの分からない言葉」に悩まされます。ズクダセ(がんばれ、、努力せよ)などと言われてもチンプンカンプンです。

「標準語で…」などと要求しても「郷に入ったら郷に従え」と先輩から一蹴されます。

休み時間や放課後に、草野球やソフトボールをしました。これが最もポピュラーな遊びでしたからね。そこで「とべ、とべ事件」が起きました。

最終回、県外出身者がヒットで一塁に出ました。ランナーが一塁、三塁、しかも1点差で負けています。ここは、何としてでも盗塁して、ワンヒットで逆転サヨナラのチャンスです。一塁コーチも声に力が入ります。

「リー、リー、リー…  とべ!」

ところがランナーになった男、リードしていた場所(一二塁間)で飛んでいました。

いや「跳んで」いました。ピョンピョンと上下に跳躍しています。

「違う、飛ぶんだ!」 ・・・通じません。

また跳躍を始めて・・・そこへ捕手から送球されて、タッチアウト、試合終了でした。

「お前、なにをしてるんだ!」「おまえが『跳べ』って言うから…跳んだやないけー!」

喧嘩にはなりませんでしたが、学内では笑い話として評判になった事件でしたね。

嘉納治五郎

準主役というか、走り回るだけの四三に比べて存在感がありますねぇ。

講道館の創始者、柔道の父、東京高等師範の校長・・・というあたりは紹介しました。

この方、神戸の生まれです。1860年12月10日生まれ

なぜ生年月日まで書いたかと言えば、この日、12月10日がIJF国際柔道連盟の「柔道の日」に制定されているからです。

柔道の国際化に嘉納治五郎の貢献は大きく、ロシアのプーチンさんなども講道館には一目置きます。

治五郎の生家は廻船問屋を営む、神戸でも大富豪の一つです。幕末に、勝海舟の神戸海軍塾に巨額の投資をしたこともあり、明治政府とのコネもあったでしょうね。

治五郎の実力もさることながら、生家の経済力もありましたから、活動には制約が少なかったでしょう。講道館を設立したのは治五郎・若干22歳の時です。

四三が陸上競技部へ入部

「知育」「徳育」に加えて「体育」を重視する嘉納治五郎校長の方針で、東京高等師範では、春と秋にマラソン大会が行われていました。

入学したばかりの春の大会・・・四三は25位と目立った成績を上げられませんでした。

注目を浴びたのは秋の大会です。一年生ながら、上級生二人に続く3位の成績で、嘉納校長の目にとまります。そして陸上部からの誘いもあり、いよいよもってマラソンにのめり込んで行きます。

この辺りまでが前回の放送でした。練習方法も・・・テレビでやっていた通り試行錯誤だったようですね。

そういう点では、全てがマニュアル化されてしまっている、現代よりも面白かったかもしれません。現代は「失敗を笑い話にするゆとり」がない社会のように思います。

大概の発見、発明は失敗から生まれます。管理社会からは、決して生まれません。

羽田運動場

嘉納治五郎たちは羽田に競技用の運動場を作ります。

この羽田、・・・羽田と聞くと羽田飛行場を想像しますが、明治に羽田飛行場はありません。昭和もかなり後で埋め立てが行われて多摩川の左岸に羽田飛行場、右岸に浮島コンビナートが建設されました。

ですから京急電車の線路の辺りの羽田、海岸に穴守稲荷があったといった感じでしょうね。

現在の海岸線からすると、かなり内側になります。羽田の対岸が川崎大師・平間寺です。

当時の羽田は多摩川の河口でアサリ、シジミなどの貝類を扱う小さな漁師町です。

河口の葦原などは放置されていたでしょうね。こういった沼地の植物は根さえ処理できれば土壌は泥と砂ですから扱いやすいでしょうね。重機がなくても運動場の建設は容易だったでしょう。

さて、マラソンコースですが片道20㎞となると東海道を保土ヶ谷辺りまで往復することになります。

宿場でいえば川崎、神奈川、保土ヶ谷の3駅ですが、東西の幹線道路で、交通量も多い街道ですから走りにくかったでしょうね。

馬車、牛車なども往来していたでしょう。しかも…、砂利道、未舗装道路を裸足です。四三は足袋を履いたようですが、足袋程度では辛かったと思います。履物などの道具開発も挑戦テーマになりますね。