02 四三デビュー

文聞亭笑一

いやはや今年の正月は「韋駄天丼」で食傷気味です。昨年の暮れから…NHKも何を思ったのか韋駄天メンバーを総動員で、どの番組でも朝から晩まで勘九郎、はるか、サダヲの顔見せ興行です。脂っこいというか、ベタベタで、山盛り、てんこ盛り…何とも鼻につきます。

昨年の不人気、低視聴率が堪えたのか、その原因を「宣伝不足」と分析したのか?

だとすれば少しピントがボケているような気がします。昨年は西郷と島津斉彬の師弟関係、 西郷と大久保の友情物語というシナリオ構成にしたのですが、それに絡めた脇役と、ストーリー展開が面白くなかったということでしょう。マジメに過ぎて肩が凝った…と云うのが正直なところで、遊び要素というか、ユーモアに欠けた展開が不人気の原因だったと思いますよ。

今年は主人公が知名度の低い方です。来年のオリンピックを睨んでのスポーツ物語ですが、その知名度の低さを逆利用して、毎回「アッと驚く」ような場面を挿入した方が良いと思いますね。「チコちゃん」が人気なのは、「へぇ~、そうだったんだ」という発見があるからでしょう。

箱根駅伝

今年の箱根駅伝は面白かったですねぇ。総合優勝は東海大が念願の初優勝。往路は東洋大、復路は青学大と「優勝」と名のつくものに、すべて違う名前が入るのも珍しいことでした。

箱根駅伝・・・長距離選手の養成のため、金栗四三たちが始めたもので、そのMVPに金栗杯が渡されているなどと…今年初めて知りました。今年は東海大学優勝の立役者、8区逆転を成し遂げた選手に与えられましたが、抜かれた方の一年生が気の毒でした。湘南海岸でずっと風よけに使われて、遊行寺の坂で一気に置いていかれてしまいました。駆け引き、経験の差と言えばそれまでですが、何となく…いびられているようで、同情してしまいましたねぇ。

もう一人、一区で転倒し捻挫してブレーキしてしまった大東大の選手、ねん挫したまま20㎞走らせるというのは・・・同意できかねます。タスキをつなぐ・・・という大切さは理解しますが・・・、身体を壊してしまっては元も子もありません。棄権させなかった監督も、棄権しなかった選手にも賛成しかねます。勇気ある撤退・・・も駅伝のテーマではないでしょうか。所詮、タスキはつながらなかったのです。繰り上げスタートが続きました。

「タスキをつなげる」「友情の証」などと実況アナウンサーは絶叫しますが、身体を鍛えるためのスポーツで体を壊すのは感心しません。日本には「撤退の美学」「撤退の勇気」のような文化がありませんね。負けるが勝ち・・・こういう物語も必要ではないでしょうか。

嘉納治五郎

先週、「01」で金栗四三の故郷紹介をしましたが、全くのフライングでした(笑) 

第一回目の放送で金栗、勘九郎は最後の最後に出てきました。第一回目の主役は嘉納治五郎でしたね。柔術という武道を柔道という形の競技に変えた人、柔道のメッカ・講道館の盟主として知っていましたが、日本にオリンピック精神を導入した草分けとまでは思っていませんでした。

子供の頃に「少年」だったか、「少年画報」だったか…「だるま君」という柔道少年を主人公にした漫画が連載されていて、その中に嘉納治五郎が永世10段のような形で登場していました。私の嘉納治五郎に関する記憶はそれだけです。 ん! 思いだしました!「だるま君」が連載されていたのが「少年」で、「少年画報」には赤胴鈴之助が連載されていました。

「お前、あっち買え。おれ、こっち買う」

少ない小遣いを有効活用するために、仲間内で分担して回し読み・・・情報過多の現代の子供らから見たら「バッカじゃないの」というほど、物も、情報もありませんでしたねぇ。物も情報も、あり過ぎるがゆえに問題を起こしている、現代の子供らには信じられないことかもしれません。

同じことが、明治の人たちと我々とのギャップでしょう。

オリンピック…スポーツの祭典、平和の象徴、参加することに意義がある…我々にとって当たり前の概念ですが、明治の人々にとっては歯が浮きそうな夢物語、お伽噺の世界だったでしょうね。戊辰戦争、西南戦争、日清戦争、日露戦争・・・と、明治というのは「戦争」が肥大化していく時代でした。乃木将軍による203高地攻略、東郷元帥による日本海海戦…日本中が西欧との戦争に勝利した喜びに酔っていました。

この当時の人々にとって「戦う」とは「生きるか、死ぬか」ということで、「負けちゃった。   残念、今度こそ」というスポーツの世界とは無縁の価値観だったでしょう。

負けたら…「責任を取って切腹」という価値観の方が強かったでしょうね。

そんな中で「敗者があってこそ、勝者がある」という柔道の考え方は、世間から違和感を持って迎えられたかもしれません。しかし、相撲とて、野球とてそうで、勝者は敗者がいてくれたおかげで勝者です。

金栗四三デビュー

前回のラストに、嘉納治五郎が企画したマラソンレースがありました。無名の金栗四三が完走し、しかも当時の世界記録で帰ってきます。

羽田からどこまで行ったんでしょうね。

当時の羽田、勿論、飛行場などありません。多摩川の河口で、対岸は有名な川崎大師の門前町ですから氾濫原として遊水地的に放置されていたことでしょう。ここに運動場として400mトラックを作ったというだけで、大変な工事だったと思います。湿地帯の葦原・・・葦の株を引き抜いて始末するだけでも相当な手間暇がかかります。

羽田を出て、どこまで走ったのか?

まずは多摩川を渡らなくてはなりませんが当時、多摩川に架かる橋は六郷橋しかありません。今年の大学駅伝でも通った橋です。ここまで5kmほど多摩川を遡り、現在の駅伝コース同様に川崎、鶴見、東神奈川から保土ヶ谷の手前か、桜木町あたりで折り返したのでしょう。

正月の駅伝で使う東海道は国道15号線です。江戸時代の東海道ではありません。

江戸時代の東海道は六郷の渡しを過ぎると、川崎宿に入ります。川崎宿と旧東海道は、その後ソープランドの堀の内で有名になりましたが、15号線は旧東海道のバイパスでした。

更に、そのまたバイパスとしてできたのが現在の国道一号線で、それでも足らずに第三京浜(有料高速)や、高速・横羽線、湾岸横羽、更には東名高速などができています。

ちなみに「一国・第一京浜国道」と言えば15号線のことですし、「二国」が国道1号線です。ですから・・・裕次郎の「夜霧の第二国道」は国道一号、現東海道を歌います。紛らわしい・・・。