03 肥後モッコス

文聞亭笑一

いやはや…四三さんはあっという間に幼少期を過ぎ、海軍兵学校の試験に落第して、東京高等師範学校に進むというところまで行ってしまいました。韋駄天のスピード感覚でしょうか。

九州、熊本の・・・いわゆる観光ルートから外れた玉名あたりの風景や人情を味わいたいと思っていましたが・・・それは別の機会になるのでしょうか。

肥後モッコス

現代の熊本を代表するのはクマモンでしょうか。シンプルなデザインですが、実に愛嬌があってユルキャラNo1と言われるにふさわしい存在です。「熊本と言えばクマモン」というのが現代のイメージですが、それは熊本の人たちにとってどうなのでしょうか?

熊本と言えばモッコス、土佐のイゴッソウ、津軽のジョッパリと並んで「日本三大頑固もん」として有名です。私たちの少年時代に「赤バット、打撃の神様、九連覇の大監督」として憧れた川上哲治さんもその一人で「哲(鉄)のカーテン」などと言われ、かたくなにマスコミの取材を拒否して有名でした。熊本人、モッコスを説明するのに、頑固・・・というより、「思いこんだら命がけ」「信念坊主」などという方が似合いかもしれません。

熊本県人の気質を表現するのに、隣の薩摩人と対比して「薩摩の大提灯、肥後の腰提灯」とも言われます。曰く、薩摩では大きな提灯を掲げるような実力者が現れると、皆でそれを盛り上げて大成させようとする。そして、実力者が大成した暁には、支援してくれた地元の者たちを芋づる式に登用する。

その半面、肥後人は一人一人が「俺が・・・」「俺が・・・」と自己主張をし、リーダに協力しない。腰提灯とは、自己主張が強いという意味で大提灯には見向きもしないという性格を表します。 さらにはリーダシップを発揮しようとすると、寄って集って足を引っ張るという態度に出ます。これを称して「薩摩の芋のツル」「肥後の引き倒し」などとも言います。

戦国時代に肥後の国は、玉名の菊池一族を始め各地に豪族が割拠していました。肥後の国主という存在はありません。秀吉の九州征伐の後、肥後の国主として越中から佐々成政が赴任しますが…全く言うことを聞きません。腰提灯で・・・我が道を行くモッコスばかりでした。

腹を立てた佐々成政が、力で支配をしようとして失敗します。各地で反乱が起こり、大混乱、結局は佐々が改易・退陣して、加藤清正と小西行長が後継者として赴任します。この二人、朝鮮の前線では喧嘩ばかりしていますが、肥後の統治という点では良いコンビネーションで、扱いが難しいと言われることで有名な肥後人をまとめ上げています。

一言でいえば「情の清正、理の行長」「武の清正、利の行長」…性格がまるで違います。

頑固者の肥後モッコスたちも、結局は清正派か、行長派かに別れ、二派に統合されていきました。清正と行長という、全くタイプの違う部下を同じ地域に赴任させて競わせる・・・秀吉というのは「人たらしの名人」と言われますが「人使いの名人」でもありますね。

加藤清正は現在でも熊本では人気者で、江戸時代の領主だった細川家以上に親しみを持たれています。なぜか…といえば、情の人だけに民政、とりわけ治水、農業土木に投資していますね。朝鮮から拉致してきた石工集団を、熊本のインフラ整備に多用しています。

脱線・河川土木

マラソンとはまるで関係のない河川土木の話をします。

徳川幕府成立後、肥後の城主・加藤清正は各地の土木工事に狩り出されます。秀吉の遺児・秀頼の最大の後援者であるとして、家康から警戒されていましたから、その力を弱めようと無理難題の天下普請の命令が来ます。江戸城の石垣、名古屋城の石垣、治水堤防の石垣・・・石垣作りが殆どでした。それだけ、清正流築堤、石組が優れていたとも言えます。

河川土木、治水は奈良朝以来の国家的大事業で、代々各種の技術開発が続けられてきました。最初の技術革新は渡来系の秦氏が持ち込んだ技術で、棚田型の水田耕作です。秦氏の氏神がお稲荷様・・・日本中に稲荷神社があり、秦、波田、羽田、畑、波多・・・などの地名が残ります。

古代の稲作は山間部の扇状地地形で行われました。

稲作に水利はMust条件です。稲には常に水が供給できる環境が必要です。上流から水を引いて、上の田から順に潤していく…これが一番簡便な方法です。日本人の苗字に「田」のつく方が多いですが、上流で最初に引き込んだ水を使うのが「上田」 上田の水を受け取って潤すのが「中田」 その水を受けるのが「下田」

上田は水が冷たいので収量が少ない。しかしミネラル豊富で、引き締まって美味い米になる

中田は程よく温まり、ミネラルなどもあり、程々に美味く、収量もある

下田は中田の温水を得て稲は良く育つ。収量は一番だが、水に養分がないので味は劣る

江戸時代の河川土木、治水には三つの系統がありました。

武田信玄の功績とされる信玄堤の技法・・・甲州流

加藤清正が導入したという…清正流の石組

伊奈忠次が利根川東遷に使ったという…関東流

他にも紀州流、肥前流という流れもありますが、原点は武田信玄のやったという技法ですね。水に逆らわず、水の勢いを消して氾濫させない。水を抑えるのではなく、なだめる・・・これが日本古来の川との付き合い方でした。明治以降、西洋文明への信奉が行きすぎて、コンクリートで固める手法ばかりで大失策を続けます。万里の長城のような防潮堤が、脆くも倒されてしまったのが東日本大震災の津波でした。福島原発事故も、防潮堤への過信が原因です。

古人の教訓は素直に聞くべきでしょうね。岩手県下閉伊郡田老町にある「これより先、家を建てるべからず」の石碑の内側は、東日本震災の津波の被害を受けていません。

四三 東京高等師範学校へ進学

東京高等師範学校は、後の東京教育大学。更に後に、筑波大学になります。

海軍兵学校の受験に失敗した金栗四三が進んだのは教師への道でした。

この当時から「教師は聖職」という概念が根付いていました。江戸期に教育を担当したのは主に寺子屋の和尚さんでした。和尚さんは・・・宗教的な人ですから聖職です。また、論語などの儒学を教える先生も学者・聖職でした。その延長上で「先生とは、凡人ではない」というのが日本人の通念でした。ですから・・・四三が「教師を目指す」というのは誇り高き目標です。

教師が「我々は一介の労働者」と聖職・尊敬を自ら投げうってしまったのが戦後ですね。

それが良いか悪いかは見解に差がありますが、私は聖職であるべきだと思っています。