06 黎明の鐘

文聞亭笑一

羽田運動場での代表選手選考会、「マラソンはどこまで行って折り返したのか?」というのが、前回号の疑問でしたが、答えは神奈川宿でしたね。

東海道の旧道は、現在の国道のように直線化できていませんから思いのほか距離が延びるようです。

もっとも、海抜0mの羽田から殆ど高低差のない街道を走ります。高低差があったのは多摩川と鶴見川を渡るための橋と、神奈川宿付近だけかもしれません。

神奈川宿

四三が走った東海道の宿場は二つ、川崎宿と神奈川宿です。江戸時代の東海道53次宿場を描いた安藤広重の絵を引用してみました。川崎は渡し舟の図柄ですが、神奈川宿は海岸沿いの崖の上に描かれています。

つまり、現在の国道15号線や、横浜駅などは埋め立てで陸化した土地で、江戸期には海中にありました。

絵ではかなりの大型船が停泊していますから、水深もあったということでしょう。

四三の時代には既に新橋―横浜間の汽車が走っていますが、鉄道開通時の「横浜駅」とは現在の「桜木町」のことで、現在の横浜駅は海中でした。

ついでですから「お江戸日本橋」の歌で、この辺りがどう歌われていたか確認してみます。

六郷こえれば 川崎の 万年屋

    鶴と亀との 米饅頭

    こちゃ 神奈川 急いで保土ヶ谷へ こちゃへ こちゃへ

東京都大田区六郷・・・この辺りは多摩川が大きく湾曲し、南の川崎側に半島のように張り出しています。

明治政府の治水方針は徹底した「河川の直線化」でしたが、なぜか六郷だけは曲がったままにしていますね。

「お江戸に残りたい!」という住民の要求が強かったのでしょうが、この辺りは、歴史的には水害の名所になっています。

直線化されて勢いのついた水が、湾曲部に入ってきたら当然溢れます。

ただ逆に、東京湾を津波が襲っても、この辺りで溢れて勢いを減じますから、上流への影響は軽減されます。功罪あい半ば・・・ですかね。

歌では川崎と鶴見の「名物」を紹介しています。

川崎の万年屋は、大師詣でに訪れる客に大人気の「奈良茶漬け」で有名でした。

鶴見では鶴亀をかたどった米饅頭が有名だったようで、いずれも休憩場所になっていました。

現在、万年屋はありませんが、川崎宿資料館に行けば、奈良茶漬けは買えます。鶴見には現在も米饅頭を売る菓子舗があります。

現代人にとって「美味い」というほどのものではありませんが、江戸時代の味覚を体験してみるには良いかもしれませんね。 とはいえ、マラソンレース中の四三が「一服」しているわけにはいきません

四三、代表を固辞する

羽田競技会の結果を受けて、嘉納治五郎などの大日本体育協会(現・JOC)は長距離の金栗四三と、短距離の三島弥彦をストックホルム・オリンピックに派遣することを決めました。

ところが…、当初は資金援助を約束していた文部省が態度を豹変させます。

「学生の本分は勉学にある。駆けっこのような遊びに金を出すわけにはいかぬ」と言いだしました。これには四三はもとより、資産家の御曹司・三島ですら二の足を踏んでしまいます。嘉納の説得にもかかわらず両名とも「代表辞退」を申し出ます。

先立つものは金・・・などと云いますが、自前で出場するには金額が大きすぎます。

日本からストックホルムまで、当時のお金で1800円かかります。現在のレートに変換すると500万円ほどになるようですね。薩長系財閥の三島家ならいざ知らず、熊本の田舎から上京してきた四三に調達できる金額ではありません。

辞退する二人に、嘉納治五郎が誠心誠意の説得をします。どういう説得の仕方をしたのか・・・

それは今週のテレビを見る楽しみですね。

ただ、嘉納が四三を説得するために使ったキーワードが残っています。

「世の礎となり、時に捨て石となるは辛いが、誰かがやらねば永遠に進まない」

「君こそが黎明の鐘を鳴らしてくれ」

四三は「黎明の鐘・・・夜明けを告げる鐘の音、物事の始まりの第一歩」という言葉に、心が打ち震えました。

断られ、叱られるのを覚悟して、兄の実次に資金援助を依頼する手紙を書きます。

ところが…兄からの返事は意外でした。大喜びしてくれた上に、「田畑(でんばた)売り払ってでも金を工面してやる。大いに頑張れ」と返事してきました。

これを寮監の先輩・福田源蔵に話すと、大いに感激し「後援会」を立ち上げ、寄付集めを始めてくれました。

福田本人も縁起を担いで11円11銭を寄付したと言います。

11円11銭は1800円=500万円であるならば3万円ほどになります。

この活動が広がり、後援会には1500円の寄付が集まりました。これに、兄からの支援金300円を加えて、遠征費用のめどがつきました。

足袋職人・播磨屋の黒坂辛作

予選会で使った足袋は、レースの途中で底が破れ使いものにならなくなりましたが、それに代わるランニングシューズが必要です。

四三の必死さと、黒坂の職人の意地がぶつかり合って試行錯誤を繰り返し、3枚底のマラソン足袋が出来上がります。

ちなみに、後の東京オリンピックではエチオピアのアベベ選手が裸足でマラソンを走って優勝しますが、それは道路舗装と整備が行き届いてからの話で、砂利道での裸足は無理です。

私の小学生の頃(S・30年当時)のマラソンは運動靴が1/3、足袋が1/3、裸足が1/3だったように記憶しています。

どれが走りやすいかというよりは、貧富の差でしたね(笑)

順位ですか? 裸足が上位、運動靴組は途中棄権が多かったですねぇ。ハングリー精神というのか、目的意識の強さか、それとも日ごろの鍛え方の差か? 多分、日ごろの運動量でしょうね。裸足組の殆どは農家で、家の手伝いに走り回るのが日常でした。

私ですか、最初は足袋でしたが、足が蒸れて走りにくいので、裸足にしました。