17 箱根山

文聞亭笑一

山路来て 何やらゆかし すみれ草 (芭蕉)

♪ 箱根の山は天下の険・・・

箱根・・・で思いだす詩・曲を挙げてみました。

東海道と言えば、江戸から京に向かっての最初の難関は箱根山です。この山を走って登ろう…などという遊びを考えて、それが現代にまで伝わる正月行事になろうとは…

発案者の金栗四三も驚いたかもしれません。

今週もテレビとは無関係に東海道の話を続けます。

東海道は奈良朝の時代から開拓されました。日本武尊の東征、坂上田村麻呂の蝦夷征伐など、古墳時代から西から東への軍用道路、そして東から西への納税ルートとして開拓されていきました。

このシリーズの3部として連載している「橘の記」の時代、西暦350年ころから、すでに街道の原型ができつつありました。

当時の関東平野は大湿原です。標高10ⅿまでは、満潮時に潮が入る環境ですから農業には適しません。

海辺に漁民が集落を作ります。彼らの主食は貝、アサリ、ハマグリ、アワビ…、貝塚から出てくる貝殻が食生活を想像させます。

とはいえ、農業技術も伝わっていました。海辺の中小河川の扇状地に、棚田的な畑を造成して、穀類を生産します。水田を造成するほどの技術があったかどうかは分かりませんが、豊富 な海産資源と、栗、団栗などの果実、さらには陸稲、蕎麦、粟、稗などの穀類で食料は充足で きていたと思われます。

勿論、沿岸漁業は行われていたと思いますし、狩猟で鹿、猪などの蛋白源は手に入れていたと思われます。

奈良朝のヤマト政権が「蝦夷」とバカにするほど未開ではなく、むしろ、食生活ではグルメだったのが4世紀当時の関東だったと思われます。ヤマトと関東の実力を分けたのは「鉄」 当時の関東には鉄どころか、青銅器も少なかったと思われます。

石器が主力でした。その関東に鉄器文化を導入したのが橘樹一族です。流通を生業とし、4世紀の関東を支配しました。

その、王族の古墳が集まるのが私の住む町なので・・・郷土史に、はまってしまいました(笑)

韋駄天・四三君は相変わらずハーハー スースーと吠えて、「ばってん」「ばってん」と走り回ります。若き日の志ん生は、危ない世界を渡っていますが、あまり興味が湧きません。

読者の皆さんの半数以上はテレビを見ていないようなので、大河のストーリーは無視します(笑)

・・・といいながら、我々高校同級生仲間は「やりかけの仕事・大河ふるさと探訪」に出かけます。

四三君の故郷・クマモンが中心ですが、ついでですから令和ブームに沸き返る太宰府に立ち寄り、「東風吹かば…」と飛梅饅頭(?)を味わってきます。吉野ケ里で古墳時代を想像し、 熊本城の石垣の修復状況を視察し、そして阿蘇界隈の地震・火山を体験してきます。

物好きですねぇ。

まぁ、動ける間が花です。九州の北西部を走り回ってきます。