万札の顔 第38回 渋沢家の斎家

文聞亭笑一

師走に入りました。ドラマもあと2回、いよいよラス前です。

「青天を衝け」はコロナ禍でスタートが遅れましたが、40回の放送内容は濃かったのではないでしょうか。

さて、ラス前の今回、栄一は財界を引退しますが、悠々自適とのんびりさせてはもらえません。

福祉がらみの仕事や、民間外交など、更には政府からの各種協力要請に忙殺されます。

外国からも「日本の財界代表は渋沢栄一」という評価が定着していますから、何かと声がかかります。

篤治の廃嫡

以前にも書きましたが・・・こういう父を持つと後継ぎの子息は大変です。

偉大すぎる親父と比較されても・・・親父に勝ることと言えば芸者遊びで覚えた長唄、常磐津、都都逸などの芸事しかありません。

「長者三代」とか「売り家と 唐様で書く三代目」とか言われますが、二代目の篤治は重圧に耐えきれなかったようです。

芸者と駆け落ち…というか、家を出てしまいます。

米国出張中にこれを知った栄一は、即座に「篤治の廃嫡」を決め、篤治の長男である孫の敬三を後継者に指名します。

指名された敬三こそいい迷惑で、当時は二高(仙台)の学生でした。

動物学に興味を持ち、第二帝国大学(現・東北大学)の農学部を目指していたのですが、急な話に驚き、且つ、抵抗します。

父親よりも伯父の穂積教授を尊敬していて、学者志向でした。

栄一は孫に向かって畳に額を擦りつけるように後継者となってくれることを哀願します。

敬三は、やむなく祖父の説得に応じて後継者となるべく進路変更を決断しますが、篤治廃嫡➡敬三後継と言う流れは、後に予想される渋沢家の後継者争いの芽を、早期に摘むための策略ではなかったか…という見方もあります。

栄一の子孫には三つの流れがあります。

●正妻・千代の子供たち・・・いわゆる嫡流があります。

 穂積歌子、阪谷琴子、渋沢篤治・・・更には篤治の息子敬三、信雄、智雄

●妾・くにの系統

●敬三の姉で尾高家を継いだ尾高二郎の妻・文子、妹の大川平三郎の妻・照子

後妻・兼子の子供たち

 武之助、正雄、秀雄、それに妹・愛子の夫である明石照男

・・・これだけ候補者がいたら、栄一亡き後で騒動が起きる可能性は高かったでしょうね。

論語を人生の柱とする栄一にとって、「修身、斎家、治国、平天下」は生き方の基本です。

修身・・・自らの生き方を整える ・・・渋沢栄一個人の修養、人格形成

斎家・・・家庭や一族郎党を治める ・・・渋沢家とその一族を束ねる

治国・・・自らの事業、組織を治める ・・・渋沢財閥を経営する

平天下・・・天下、国家のために尽くす ・・・日本国と、世界平和にお役立ち

世界平和と、産業の発展を目指しての民間外交が栄一の最後の仕事「平天下」の目標です。

その為に、人生の最後のエネルギーを投入しています。それなのに、それ以前の「斎家」のところで問題を起こすわけにはいきません。

篤治の不始末に激怒したのも「斎家の乱れ」を引き起こしたからです。

伊藤博文の暗殺

栄一にとって盟友とも言うべき政治家は、伊藤博文と井上馨の長州系でした。

肥前系の大隈重信とも密接な付き合いがありましたが、こちらとは政策的にぶつかることが多かったようです。

その伊藤博文が、1909年に出張先のハルピンで、朝鮮人の独立運動家に暗殺されます。

伊藤博文は終始「朝鮮併合反対派」だったのですが、山県有朋や桂太郎と言った軍部の「国防上の理由をタテマエ」とした強硬意見に逆らいきれず、韓国を併合したのが1905年で、伊藤は初代の朝鮮総督をしています。

併合はしたが、「民政は自分がやる」と軍部の自由にさせないために自らが乗りこんでいます。

伊藤がまず、朝鮮でやったことは教育でした。

李王朝の怠慢と言うか無策で、併合時の朝鮮人の文盲率は94%と異常に高く、欧米列強による植民地よりも「土人」的でした。

民衆が百人いて読み書きのできるものが6人しかいないということです。

文字は漢字しかありません、だからそれよりも簡単なカタカナを教えたのですが・・・それが、韓国人からすれば「屈辱」であり、言語の押し付けに感じたのでしょう。

韓国が執拗に歴史問題を云々するのなら、なぜ自分たちの国が世界最低の識字率の国になってしまったのか、李王朝のやってきたことは朝鮮人民にとってどういう結果をもたらしたのか、つまり韓国史、朝鮮史を勉強してからにしてほしいものです。

今でこそハングル文字が主流ですが、当時はそれすら読み書きできなかったのです。

八つ当たり的暗殺でしたね。現在の反日も八つ当たりですけどね(笑)

朝鮮にしろ、台湾にしろ、日本の植民地統治は欧米列強に比べて緩やかでした。

台湾の場合は乃木希典が総督として赴任し、善政を敷いています。

それが現代にまで友好関係として残ります。

朝鮮も、伊藤博文を暗殺せずに置いたら台湾と同等の善政が敷かれたかもしれません。

暗殺したがために、軍部が乗りこんで強権的支配になってしまったとも言えます。

第一次世界大戦

第一次世界大戦が始まります。

「ドサクサに紛れて日本の権益を拡張しよう」と考えたのが軍部で、その意見に押されて参戦を決めたのが大隈重信でした。

大隈からは栄一にも協力要請がありましたが、栄一は日露戦争の時ほど乗り気ではありません。

世界各国の日本を見る目が厳しくなってきていることを実感していたからです。

明治維新の直後、欧米は日本を「東洋の小国」と観ていました。将来の植民地候補でした。

開国し、産業革命と言うか、急速な文明開化に驚き、アジアの他国とは違う・・・と見直します。

そして日清、日露の戦争に勝ち、軍備を拡大するにつけ、警戒感を持ち始めます。

後輩、面倒を見てやる・・・と云う感覚から、ライバル・競争相手と言う感覚に変わります。

外交交渉でも初心だった幕府と違い、したたかになってきました。

時には脅しまで使い、高飛車な交渉もします。うかつには対応できなくなりました。

しかも、その成長ぶりが早すぎます。追い抜かれる恐れすら感じ始めました。

とりわけ・・・欧米各国に分からなかったのが山県有朋と言う黒幕の存在だったでしょうね。

自身は一切表に出ず、政治も軍事も思いのままに操る魔王・・・魔王の支配する国に見えたかもしれません。

昭和の声と共に、山県有朋・桂太郎の帝国陸軍政権が日本国の舵取りを始めます。