万札の顔 第24回 再出発

文聞亭笑一

オリンピックで中断していた放送が再開しました。また、ちょっと忙しくなりました(笑)

隔靴掻痒・・・と云う言葉があります。足が痒いのを、靴を履いたまま掻き毟る・・・という意味で、パリに留学中の栄一や昭武の心境そのものでした。

情報は不正確な現地の新聞情報か、一か月遅れの手紙でしか伝わってきません。

慶喜から、なにがしかの指令があるまで動かぬ…というのが栄一の方針でしたが、水戸藩主が急死し、昭武が相続しなくてはならぬ・・・となっては帰国せざるを得ません。

1869年11月3日、年号が「明治」に改まった横浜港に帰国しました。

御一新

この年の8月までに、戊辰戦争と呼ばれる内戦は終結していました。

栄一たちが横浜に帰国した頃には、河合継之助の率いる長岡・牧野藩の北越戦争、松平容保の会津藩・鶴が城や白虎隊の戦など、すでに過去のこととなっていました。

横浜港の入国管理も新政府によってなされていましたから、栄一たちは被告人というか…罪人扱いでしたね。

とはいうものの、昭武は新政府が任命した水戸藩主ですし、栄一たちは洋装していますから、外国人を相手にするような…ぎこちなさだったようです。

栄一の方にも「日本国代表団」の意地がありますから、代表団として旅費精算書や日用雑貨、食費に至るまでの詳細な会計報告を作成します。

そして残金を添えて新政府に提出します。このことが、後に、大蔵卿・大隈重信に伝わり、大蔵省に招聘されることに繋がります。

その一方で、株や債券で儲けた資金は、水戸藩主になった昭武のための土産を準備します。

スナイドル銃一個小隊分といいますから、百丁ほどでしょうか。残金は16000両もありました。

横浜から江戸へと戻り、昭武を水戸藩士たちに預けてから、栄一はようやく自分のことに戻ります。両親や千代のことは勿論、喜作や淳忠、平九郎たちのことが気がかりです。

彰義隊の結成と分裂

江戸城の無血開城の話は有名です。幕末三舟と言われた3人が、夫々に役割分担をして、慶喜の身柄安泰を引きかえに江戸城を明け渡す…という交渉劇です。

山岡鉄舟・・・

駿府の官軍大本営に乗りこみ、総攻撃の前に勝海舟との交渉の場を約束させる。

高橋泥舟・・・

慶喜の傍に誰も近づけず、幕臣の妄動を抑える

欲深き 人の心と降る雪は 積るにつれて道を失う という歌で有名

勝 海舟・・・

新門辰五郎に江戸市中焼き払いの準備をさせて田町・薩摩屋敷で西郷との談判

JR田町駅改札コンコースには、勝・西郷会談を描いたモザイクタイルの壁画があります。

田町駅は首都圏在住者でもあまり乗降しない駅ではありますが、暇があったら途中下車してみてください。

駅のすぐ近くの国道沿いに「勝・西郷会談の地」という石碑も建っています。

慶喜は罪一等を免じられ水戸藩お預けとなりますが、それで収まらないのが旧幕臣です。

とりわけ渋沢成一郎(喜作)たち、旧一橋家臣団です。「上様の名誉回復」を旗印に武力集団を結成します・・・それが彰義隊です。

成一郎は新政府の慶喜への不当処分を糾弾すべく「建白書」を用意したいのですが・・・文案を作れる者が居ません。

そこで、成一郎が担ぎ出したのが尾高淳忠です。

淳忠の、格調高い文案に彰義隊の面々が燃え上がります。旗本などから隊員が集まり、大きな勢力になりました。

建白書を作った渋沢一族(成一郎、淳忠、平九郎)に人気が集まり、成一郎が隊長に、淳忠が参謀、平九郎は部隊長になります。この時期の彰義隊は渋沢軍団でした(笑)

が・・・、旗本たちの心のうちには「奴らは武州の百姓」という意識が抜けません。

戦場をどこにするかの軍議で、上野山を主張する旗本たちと、多摩山地を主張する成一郎たちが衝突し、分裂してしまいます。

上野に残る旗本たちの彰義隊、多摩での戦を準備する成一郎たち振武軍の二派に分かれました。

飯能の戦

奥武蔵の、飯能で維新戦争があった・・・こんなことを知っている人は少数派だと思います。

このシリーズの古くからの読者である飯能在住の友人も…ご存知かどうか? 

それもそのはずで、明治から戦前にかけて「お上に逆らった忌むべき記録」として密封されていたようです。

この地域は江戸期から幕府の天領や、旗本領が多く、親幕府派の土地柄でした。成一郎がこの地を決戦の場に選んだのも、かつての一橋領があり、栄一と共に兵員募集で訪れたことがあったからです。

複雑な地形の多摩山地を背にして、大軍を相手にできる地形です。

上野山の決戦の日、成一郎たちは杉並まで進出していました。上野の彰義隊を攻める「官軍の横を衝く」戦術をとるつもりでした。

が、開戦直後に彰義隊が崩れ立ち、半日で勝敗が決してしまいます。陣を敷いた飯能へと引き揚げるしかありません。

「多摩に反乱軍あり」と聞いた長州藩・大村益次郎は追討軍を差し向けます。

それに選ばれたのが広島藩、岡山藩、大村藩(長崎)、佐土原藩(宮崎)などで、川越藩、忍藩などが道案内というか、後詰になります。

この中で先鋒を受け持った大村藩は、僅か二万石の小藩ではありますが、維新の最中に藩で不祥事があり、名誉回復のために先鋭的になっていました。

隊長が戦死するほどの猛攻撃をしています。広島藩、岡山藩は物量作戦で、後方から大砲を乱射します。

それに引き換え、幕府の武器庫から強奪に近い形で調達した小銃しかない振武軍は、地の利を生かしたゲリラ戦法です。

ゲリラをやっつけるには焦土作戦になります。飯能村とその界隈は、焼野原となっていきます。寺の、殆どは焼き払われました。

成一郎たちはゲリラをしながら逃げます。元々が幕府贔屓の住民が多い土地柄ですし、官軍の兵士は言葉さえ分からぬ西国の兵士です。

多くの振武軍兵士は逃げに逃げ、関東の各地に潜伏していきました。成一郎と淳忠は高崎を目指して逃げます。

逃げそこなったのが平九郎で・・・官軍に発見され、抵抗の挙句、討ち取られてしまいます。

再会

駿府に隠居している慶喜に留学の報告をする・・・それがまずは第一の仕事と考える栄一は、何年かぶりに故郷を訪ねます。

家族のそれぞれが、それぞれの想いを抱きながら栄一を迎えます。栄一も自らの原点に立ち戻って、将来に思いを馳せます。

「青天を衝け」 

内山峠で淳忠に披露した「漢詩」の想いこそが我が道である・・・と強く思い直します。