万札の顔 第12回 京の政変

文聞亭笑一

放映されている物語の時代がよく分からず、前号では1864年に起きた水戸の天狗党事件などをフライングしてしまいました。先週の場面「高崎城乗っ取り計画の断念」は1863年の秋ごろのことと想定されます。

時間軸を整理します。

年表

栄一たちが京に逃げたのは、血洗島に近い中瀬港に高崎城襲撃用の武器を隠してあったからです。〈隠した武器が、いずれ見つかる〉となれば・・・計画がばれます。集めたのは栄一ですから、首謀者として幕吏に捕まる可能性があるのです。

この時代の取り調べは白状するまで拷問です。捕まればヤバい!

中瀬港・・・利根川水運の終着駅です。

先日、「ブラタモリ」がこの地を訪ねていました。

これより上流は、川底に浅間山の溶岩流が流れ込んでいて水深が浅くなるのだそうです。

江戸からの物資は、ここで積み替えられて内陸の地方へ陸路を行くことになります。

血洗島の近くに物流の大拠点があったのですね。近在の庶民も豊かになるはずです。

鎌倉街道

栄一たちは「警戒の手薄な鎌倉街道を経由して横浜に向かう」と計画していました。

鎌倉街道が高崎方面にまで延びていたのか?・・・と不思議に思うかもしれませんが、鎌倉街道と総称される街道は3ルートあります。

上(津)道と呼ばれるのが、栄一たちが使う予定だったルートで、武蔵の国を南北に縦断します。

高崎から先は二手に分かれ、信濃路、越後路に向かう鎌倉時代の信越線ですね。

中津道は現在の中原街道を経由して都心を抜け東北に向かいます。いわば東北線。

下津道は私の家の近くを通り、品川から千葉を経由する・・・常磐道です。

図 図

平岡円四郎

栄一たちを「一橋家の家臣に・・・」と誘ったのが平岡円四郎です。

この人は旗本・岡本家の生まれですが、家督は兄が継ぎますから平岡家に養子に出ます。

若いころから聡明さで知られ、藤田東湖や川路聖謨に才能を見出され、慶喜が水戸家から養子として一橋家に移るときに、側小姓として一橋家に入ります。

この一橋家ですが、他の大名家のような世襲的家臣を持ちません。当主が将来の将軍候補ですから、旗本などのうちから有能な家臣を広く採用してきました。

平岡より先輩の家老・中根長十郎や、平岡同様に側用人を担当した黒川嘉兵衛、原市之進なども同様な「途中入社組」です。

栄一と喜作は、この平岡円四郎の口添えで一橋家の家臣になるのですが、後に渋沢栄一は平岡円四郎について次のように語っています。

「この人は全く以て、一を聞いて十を知るというたちで、客が来るとその顔色を見た上で、もはや何の用事で来たのかチャンと察するほどのものであった。

しかし、かかる性質の人はあまりに前途が見えすぎて、とかく他人の先回りばかりをすることになる。

自然、他人に嫌われ、往々にして非業の最後をとげたりなぞ致すものである。・・・・・・云々」

慶喜にとっての不幸は、こういった優秀な部下たちが次々とテロリストたちに暗殺されてしまうことでした。

しかも、そのテロリストたちは慶喜が生まれ育った水戸藩の攘夷浪士たちです。

慶喜には手を出せない水戸の浪士たちは、開国路線に舵をとる慶喜の側近たちを「諸悪の根源」と天誅します。

その意味では、栄一たちも危なかったですね。