「論語と算盤」逐次解説 第14回 

文聞亭笑一

53、商業に国境なし

近ごろ日米の間で面白くない雰囲気が漂う。私が始めて渡米した明治35年、サンフランシスコには「日本人遊泳禁止」なる看板が掲げられていた。 吾が日本を世界に紹介してくれたのはアメリカである。日本はそれを徳として今日まで国交の親善を務めているのに、そのアメリカが人種の偏見、宗教的偏見から日本人を嫌って、差別的待遇をするというのはアメリカ国家としてなすべきことではない。

人種差別、民族間の差別意識は・・・なかなか消えるものではありません。オリンピックを始め、世界規模のイベントでこの差別感覚の融和を図りますが、なかなかに難しい問題です。アメリカは多民族国家ですからとりわけ難しい舵取りになりますが、融和先進国です。それが・・・トランプと言う変なオッサンの登場で差別化が尖鋭化しました。 一方の中国、「俺の物は俺のもの、他人の物も俺の物」と言った塩梅の我侭放題で、国際ルールを無視した行動が続きます。トランプは去っても、習近平が世界の鼻つまみ、嫌われ者に変わりはありません。それもあって、アメリカでは東洋人を狙った暴力事件が頻発しています。 渋沢栄一にとってアメリカは特別な国でした。政治に目覚めたのがペリー艦隊、黒船の江戸湾侵入だったからです。その栄一の目に留まった「日本人差別の看板」に猛烈な義憤を感じます。 商工会議所を通じた民間外交、更には時の大統領ルーズベルトに直接談判します。 後でわかったことですが・・・遊泳禁止となった理由は、猟師出身で潜水が得意な日本人の若者が、水中から水泳中の女性に悪戯をしたからでした。人種差別ではなかったのです。

54、権利主張と論語

「論語には権利思想がない、権利思想のないものは文明国の教えとはならぬ」と論ずるものがいる。

論語の上面だけを読めば、そう思うのもやむを得まい。

論語を儒教の聖書とし、キリスト教のそれと比較すれば確かにそう見えるだろうが、論語は己を律するための教旨であって布教のための教科書、宣伝文書ではない。

とりわけ耶蘇教は、その教旨が命令的で権利思想が強い。

しかし、耶蘇でいう「愛」と、論語でいう「仁」はほとんど同じ概念なのである。

さらに言えばキリストや釈迦には「奇跡」という名の非科学的現象、つまり嘘が混じる。しかし、論語にはそれがない。

宗教談義にも真正面から対峙するところが「論語と算盤」の魅力の一つです。

昭和の一時期に「外国に行ったら宗教の話はするな」などと言っていた日本の実業界は「腰抜け」と言われても仕方ないでしょうね。

自らの依って立つところを明らかにできなければ、実業人として認めてもらえません。当たり前の話です。

外に向かって布教する、宣伝文句としてのバイブルと、自らの心のうちに向かって自制を促す論語では、その論調に大きな差が出るのは当然です。

聖書は他人を相手にしますから権利主張が出ますが、論語は自己に対してだけですから義務しかありませんね。

55、労使問題

思うに、社会問題とか、労使問題と言うのは単に法律を以て解決されるものではない。

資本家と労働者の間は従来、家族の関係を以て成り立ってきたものであったが、にわかに法律を制定して取り締まろうとしたのは、もっともな想いたちではあるが、情に欠けてしまう。

法を設けて労使双方の権利、義務を明確に主張する様になれば、そこは理の世界となり、勢い両者の関係は離れてしまうのではなかろうか。

労使の問題は法に頼るのではなく、お互いの話し合いで解決したいものだ。

事業の利害得失は、即ち労使協働の成果である。互いの協力なしに達せられるものではない。

富の分配の法を決めても、元になる富が僅かでは仕方ないではないか。

人には技量や能力に差がある。知識や知恵にも差がある。それを、分配平均しようなどとは、思いもよらぬ空想である。

蝸牛角上の争い・・・という成句があります。

賃上げ闘争、ボーナス闘争など労働団体は激しい言葉で要求をしますが、所詮は利益配分の話です。

大きな利益があってこその配分の議論で、雀の涙ほどの利益では争うだけ無駄でしょう。ましてや赤字で・・・利益がなければ砂上の楼閣です。

事業の成否は、経済環境の問題もありますが、目標の適正さ、組織が一致団結してその目標に邁進できるかどうかによって決まります。

渋沢栄一の言う通りでだと思いますね。

欧米から直輸入した労働組合と、それに寄生する赤政党が屁理屈を振り回して経営を複雑化させます。

それが労働者のためになるのか・・。・甚だ疑わしいと考えます。

所詮は現場の仕事をせず、労組に専従している幹部の賃金を賄うための組合費ではないかと思ったりもします。

56、善競争と悪競争

全てものを励むには競うということが必要であって、競うから励みが生ずるのである。

いわゆる競争なるものは勉強の母、進歩の母であるけれども、この競争には善意と悪意の二種がある。

努力して、工夫をして、知恵を絞り他に打ち勝つ・・・これは善競争である。

一方、他人が成功したる物を真似て、その利益をかすめ取ろうというのは悪競争である。

これは単純な例ではあるが、悪競争には限りない悪知恵が働き、枚挙にいとまがない。

道徳を欠く悪競争は業界を混乱させ、貧しくし、更には社会、国家の品位まで貶める。

今や経済大国となった中国や、高度成長期の日本・・・耳の痛い話だと思います。

トランプ・アメリカが中国を敵視し、バイデンも敵視を続けているのは中国が悪競争を続けているからで、とりわけ知的財産権の問題や、国家ぐるみの産業スパイ活動は目に余ります。

経済大国にはなりましたが、世界のリーダーには程遠く、品位に欠けます。

現役時代に、最も嫌いな競争相手がありました。わが社が苦労して市場開発をすると、利益が出る頃になって類似品を発売し、低価格で市場を破壊しました。

一応、特許は逃げていますが、モノマネ、模造品であることは見え見えでした。

電卓、健康器具、制御用コントローラなどで被害を受けましたね。

その会社、今は経営破たんして中国資本の傘下にあります。

理念なき、悪競争の会社に将来はないでしょう。