「論語と算盤」逐次解説 第2回 

文聞亭笑一

5、論語で商売を始める

私は論語の教訓に従って商売し、利殖を計ることができると考えた。

それは明治6年5月のことである。

論語の訓えは、元来わかりやすいものであるのを、学者が難しくしてしまい、庶民から遠ざけてしまっている。

論語をわかりにくく・・・と云うところは同感です。なぜ「子曰く・・・」から漢文調で始めるのでしょうか。

高校時代に漢文の授業が好きだったのは私のような変わり者の少数派で、その多くは祖父母から「子曰く…」を刷り込まれてきた者たちでした。

論語というのは3千年の東洋哲学の教訓集のようなものです。道徳教育の教科書のようなものです。

論語を以て道徳教育の教科書とすれば、日教組が「封建的だ!」「戦前復帰だ!」「官僚主義だ!」「宗教教育だ」などと噛みついて来ます。

それを避けるために「漢文」という科目を作ったとすれば、それは文部省の苦肉の策だったでしょうね。

過ちて改めず それを過ちと言う まさに名言です。最近はそう言う事例が多すぎます。

クレーマ―を野放しにしている教育環境は改めるべきです。教育現場へ「自己中」丸出しで乗りこんでくるクレーマ―は、恐喝行為の犯罪者として扱うべきではないでしょうか。

6、時機を待て

いやしくも人と生まれ、争いを避けてばかりの卑屈な根性では、発展の見込みもなく、社会が必要とする人材にはなり得ない。

争いを強いて避けぬと同時に、時機の到来を待つということも、処世の上では欠くべからざるものである。

現代ではTPOなどとも言いますが、正論、提案も「時」と「場所」と「場合」で反応を異にします。

とりわけ独創的な新機軸などは発表、提案のタイミングが難しいですね。

最も安全な方法は、かつてマネシタ電器がやった二番手商法ですが、これは今、論語の故郷の国の基本戦略になりました。

このやりかたは栄一の言う卑屈な根性でしょうね。

「二番じゃいけないんですか?」と叫んだ国会議員がいますが、科学、技術の分野では二番ではいけません。

一番を目指してこそ社会の発展があります。こういう当たり前のことも知らず、テレビ映りばかりを気にする者たちが国会中継で電波を占拠しています。これは一種のテロ行為かもしれません。

マスゴミの世界では「一人7万円」の接待が問題になっていますが、問題にすべきはどういう料理を出せばそれほど高額になるのかという点でしょう。

接待、招待された方は料理の金額など分かりませんよ。金額が分かれば…途中で逃げだします。誰でも「ヤバイ!」と思います。

・・・が、いずれにせよ、公務員が接待を受けては、叩かれますね。樹下に冠を正さず・・・

我々隠居たちにとっても、やりたいことは沢山あります。

が、コロナ禍の現在、時機の到来を待つしかありません。待っているうちに寿命が尽きるかもしれませんが・・・それも天命。

7、競争環境

世間には、争いは絶対に排斥し、いかなる場合においても争いは悪であるとし

「汝 右の頬を打たれなば 左の頬も向けよ」などと説く者もある。

しかし、国家や企業が健全なる発展を遂げようとすれば、学術、技芸の点で常に外国と争い、必ずこれに勝つという意気込みなくては決して発展進歩はない。

戦後の教育は一貫して「喧嘩をしてはいけません」という基本指針で貫かれています。

GHQが、好戦的な日本人を骨抜きにするために持ち込んだキリスト教精神と、宝塚歌劇団の「清く 正しく 美しく」が幼年教育の基本倫理になりました。

運動会の棒倒しも、騎馬戦も、はたまた組体操まで「危険だ」の一言でプログラムから外されていきます。

さらには駆けっこの順位が無くなりました。お手手つないで幼稚園、みんな仲良くで競争はタブー視されてきています。

これで世の中は平和になったでしょうか? 

欲求不満の溜まった青少年は、鬱屈して閉じこもるか、暴発して非行へと走ります。

スポーツなどで息抜き(競争)していない限り、健康な精神を保てないでしょうね。

とりわけ男の子はそうでしょう。男は戦いのDNAを持ちます。

競争なくして進歩なし・・・だと思いますよ。そして、ハイリスク、ハイリターンです。

8、事を処するに

「蟹は甲羅に合わせて穴を掘る」という格言があるが、人も身の程を知らなくてはならない。勢いに乗って手を広げ過ぎると危ういことにもなりやすい。

とはいえ、分に応じて・・・と云いつつ進取の精神を忘れてはならぬ。論語には

「心の欲するところに従って矩を越えず」・・・と云う。

ともかくも、事に当たっては喜怒哀楽を制御することだ。情を野放しにすると道を誤る。

「楽しんで淫(いん)せず、悲しんで傷(やぶ)らず」と云う。心掛けておきたい。

渋沢栄一はこれを「蟹穴主義」だと言っていますが、どこまでが自分の許容範囲なのかを判断するのが難しいですね。

昔出来たことが・・・段々にできなくなって、自分の能力容積(蟹の穴)は毎年、毎年小さくなっています。それを、全盛期と同じ大きさの穴と思っては行けなせんね。

地域社会では、傾向として自己中の人が増えて、町内会などのボランティア的な仕事を引き受けてくれる方が減りました。

とりわけマンション族の皆さんは拒否されます。

仕方がないので、幾つかを引き受けてしまいますが・・・、自分が引き受けた蟹の穴が、自分の能力以上に大きくなってしまったようにも思います。

伝統を引き継いで維持していくだけなら何とかなりますが、それを発展させて・・・などと考えると力不足です。自分の歳を考えてしまいます。

ともかく「情を野放しにすると道を誤る」という一節には、反省を促されます。

常日頃付き合う相手が高齢者になると、皆様それぞれに一家言をお持ちです。

しかも思いこんだら命がけ・・・で頑固です。こういう方とお付き合いすると、喜怒哀楽のうちの「怒」が沸き立ち、説得できない自分に「哀」を覚えます。どちらも精神を痛め(傷め)ます。

保育園や小学生の子供たちとの交流で・・・「喜」と「楽」がもらえて・・・「±0」ですね(笑)