「論語と算盤」逐次解説 第5回 

文聞亭笑一

17、常識とは

常識とは 事に当たりて奇矯に馳せず、頑固に陥らず、是非善悪を見分け、利害得失を識別し、言語挙動すべて中庸に適うことである。

意志堅固なるがうえに、聡明なる知恵を加味し、これを調節するに情愛を以てし、この三者を適度に調合しつつ大いに発展せしめたるが完全なる「常識」となる。

常識に、英語のCommon senseをあてはめたのが「現代の常識」ですが、栄一の言う常識とはかなり隔たりがありそうです。

栄一は論語の節々を引用し、かなり哲学的な解釈を加えています。

栄一の言う完全なる「常識」というのは、人のあるべき姿にも読み取れます。

人の精神活動の三要素である「知・情・意」のそれぞれの長短を解説し、「行き過ぎを抑えるべし」「過ぎたるはなお…」の説法が並びます。

マスコミ、報道とは中庸であるべきだ、栄一の言う完全なる常識に近いものであってほしいと、洛隠居と一緒に始めたのが「たわごと&笑詩千万」ですが、これも毎週発行で700号を越えました。

ある意味で非常識です(笑)その間にマスコミは、益々マスゴミ化し、奇矯に馳せ、頑固に、「反政府」という自己主張を続けます。

為政者は悪人である・・・と云うのが彼らの常識で、政府に限らず地方行政の公務員もすべて「悪」のレッテルが張られます。

その延長線で、経営者は悪、従業員は善と主張します。善悪の基準が分かっていない・・・だから「ゴミ」なのです。

18、口は禍福の門なり

口は禍の元という。確かにそうだ。言いすぎて揚げ足をとられ、笑われたりもする。

だからと口をふさげばよいのか。それでは災いを防いでも福の方を招くことはできぬ。

質問や意見を言うことで相手の反応が出て、問題のありかが分かる。

それを解決すれば福が来るではないか。

口は禍の元と同時に福の門でもある。

物言わば 唇寒し 秋の風 という句が芭蕉の作だとは知りませんでした。

「出る杭は打たれる」

「雉も鳴かずば撃たれまい」

という慣用句もありますね。

およそ、この国の常識として「沈黙は金」という態度が定着していますが、「泣く子と地頭には勝てぬ」と我慢を強いられてきた封建社会の後遺症でしょうか。

渋沢はこの傾向を「非」とします。揚げ足をとるもの、中傷するのも卑劣と見ています。

しかし・・・意見を述べればいいというものでもありませんね。TPO(時と場所と場合)を考えて、作戦を立ててやらないと、先日の森発言の二の舞になります。

間違ったことを言っているわけではないのに、寄って、集って、総スカン。退任要求に屈してしまいました。

天下国家の話は当然ですが、我々のような隠居の世界でも、発言のTPOを間違えると総スカンを食い、村八分、虐めの対象になります。

なまじ能力がある者ほど排除の対象になりやすいですね。異分子をを排除し、排除して、・・・そして老人会は衰退していきます(苦笑)

19、悪(にく)んでその美を知る

私は門戸開放主義、すなわち「来る者は拒まず、去る者は追わず」でやってきた。

だから・・・色々な人が来て、色々な要請を受ける。これを見て「渋沢は清濁併せ呑む男」だというらしい。が、私は是々非々、良いものは採用し、悪いものは断る。

悪人の申し出が悪とは限らぬ、善人の申し出が善とも限らぬ。

申し出の中身次第だ。

世間のヒガミ、ヤッカミを代表するのが三流マスコミで、その中でもゴシップ専門に追いかけるのが週刊誌で、パパラッチとかいう盗撮犯を使ったりして有名人を追いかけます。

有名税と言われれば仕方ありませんが、かつての英王室・ダイアナ妃のような事件になっては脅迫罪、殺人罪とも言える事件です。

現代の日本でも似た傾向があって、皇太子妃時代の雅子皇后も神経を病むような事態に追い込まれたりもしました。

時に、差別問題が燃え上がったりもしますが、根にあるのは憶測による先入観です。

漱石は自らの小説の中で

「最近は探偵のような者が増えて迷惑だ。後を追いかけてきては『あいつは屁をひった、幾つひった』などと、どうでも良いことをあたかも首でも獲ったように書きたてる」とぼやいています。

マスゴミの探偵ごっこも、それを喜ぶ読者がいるから続きますねぇ。

ごく最近ではJOC森会長の「差別発言」が問題になり、首のすげ替えになりました。

発言の中身が女性差別だったかどうか・・・疑わしい所ですが、「差別に違いない」と決めつけた勢力の圧勝に終わりましたね。

魔女狩り、言葉狩り・・・嫌なご時世です。

20、何を真才、真知というか

およそ人の世に立つについて、知識というものがなければ前には進めぬ。

しかし、それ以上に、人は人格を養っていかねばならぬ。

高望みをせず、自分の立ち位置を良く考え、地道に修養を進めることだ。

幸いに驕り、災いに悲しむようでは凡庸人と言われても仕方あるまい。

現代は知識過剰なのかもしれません。インターネットを検索すれば「知りたいこと」が数十通りも出てきて、どれを信じていいのか判断に迷います。

昨年、友人の家にあるオリーブの木に沢山の実がつきました。友人は「掃除が大変で…」と嘆きますので、ならば漬けてみようか、と一籠もらってきました。

さて、ここからが大変でネット検索したら、「これでもか」というほど沢山のレシピが出てきました。

一番簡単そうな方法を選んでの灰汁抜きは、試行錯誤の繰り返しで、どうやら口に入る物になりましたが、芯抜き器を手に入れるためにネットでドイツから輸入する手間もかかりました。

ネットには簡単そうに書いてありましたが、やってみるとわからぬことばかりです。

芯(種)を抜いてから灰汁抜きすればもっと早く漬かったようですが・・・今年はそうしてみます。

「知っていることと、できることは違う」と思い知らせてくれるのがゴルフなどの運動競技です。

どうすれば球を真っ直ぐに、遠くに飛ばせるか…、正確に打てるか…

殆どのゴルファーは知っています。知っていますが・・・できません。だから百を叩きます(笑)