「論語と算盤」逐次解説 第8回 

文聞亭笑一

第29項、「仁者は清貧」という思想は誤解の産物

儒者は論語を誤解釈することも多く、「論語読みの論語知らず」などとも言うが、とりわけ大きな間違いが「孔子は清貧を愛し、富貴を嫌った」とする解釈である。

私は論語を隅から隅まで、何度も読んだが、そんなことはどこにも書いていない。

孔子は「正しい方法で得た富であれば大いに結構。しかし道に反して富を得るなら、むしろ貧乏なままでいた方が良い」と言っている。

儒学は江戸期を通じて道徳教育の基本でした。とりわけ朱子学での解釈が江戸幕府の認定教科書的な役割を持ちます。

士農工商と言う身分制度を設け、とりわけ富を蓄えやすい商業者を低い位置におき、「武士は食わねど 高楊枝」などという虚構を作りあげていましたね。

論語などを読むのは多くが武士であり、富農と言われる階層でしたから、その解釈に疑問を感じる人は少なく、むしろ商業者が富を蓄えるのを卑下する材料にしていました。

論語がヒガミ、ヤッカミを晴らす道具になっていたということです。

江戸時代の農村の経済は基本的に自給自足です。村の中ですべてが賄えるようにするのが基本で、大工、左官、屋根ふき、鍛冶屋、鋳掛屋などの職人技も農家の副業でしたね。

そう言う副業が屋号として残ります。屋号を調べてみると、髪結いとか、店、馬方とかいう屋号もあります。村にとって必要な物はだいたい揃っていますね。

足りないものは、行商人が運んできます。特産品などは都市の問屋が買い付けに来ます。

「余っているものを、足りないところに届ける」これが商いの道、正しい道理で、孔子は論語の中でむしろ「そのことで得る富」を奨励しています。

第30項、福祉事業は避けて通れない。

余は従来から、救貧事業は人道上より、はたまた経済上より、これを処理しなければならぬと思っていたが、今日では政治的にも重要課題になってきた。

富は自己ひとりのものではない。一人で稼いだのでなく国家、社会の助けがあってこそなしえたものだ。富が増えるということは、その分だけ社会の助力を受けているのだから、この恩恵に報いるのに救済事業は当然の義務である。

安定した社会環境があってこそのビジネスであるというのは、今度のコロナ騒動などでも良く分かります。

観光産業、外食産業などは壊滅的打撃を受けています。国家や行政からの給付金や、緊急融資で食いつないでいる状況で、状況が悪化したら事業の根底が崩壊してしまいます。

社会があってこその事業だ・・・「企業は公器だ」当たり前の話ですが、私利私欲に走る者が多いのも事実です。

社会貢献の第一歩は税金を支払うことですが、節税と称して脱税モドキの工夫に走る経営者が世の多数派であることは事実です。それを支援する弁護士や税理士が暗躍します。

障害者、高齢者など支援を求める人は増える一方ですが、福祉事業どころか寄付をする人すら減ってきました。自己中ばかりの世の中は、いずれ破たんします。

第31項、金銭を卑しめてはならぬ

古来、「仁をなせば富まず、富をなせば仁ならず」とか、「君子財多ければその徳を損し、小人財多ければその過ちを増す」などと言って金銭を卑しいものと教えてきたが、論語と算盤は一致させるべきものである。すなわち経済と道徳を一致させるのだ。 経済も我利・我利と身勝手をしてはならぬが、道徳も上記のような極論をしてはならぬ。

日本に限らず、東洋思想は「仙人」のような、清貧の士をあがめるような考え方があります。

宝塚歌劇団の「清く、正しく、美しく」などがその一例ですが、その根底には「汚いことをしなくては儲からぬ」「裏口にこそ利があり」「人を騙してでも儲ける」と言った悪徳事業家、悪徳商売人のイメージがあります。

実際に商売に携わってみると、そういう・・・通説の誘惑にかられることもありますが、やってしまったら信用台無しです。

一時の利益はあっても長続きしませんし、傷ついた信用を回復させるには気の遠くなるほどの時間がかかります。

最近はカタカナ好きなマスゴミがコンプライアンスなどと英語を使いますが、要するに「信用」です。コンプライアンスの意味するところを知らないから英語を使うんでしょうね。

マスゴミ記者や小池知事は翻訳能力がないのです。

とりわけ最近のマスゴミは「俺がルールブックだ」と思い上がり、魔女狩りをしては高飛車に企業を断罪することが増えました。

国会と警察の取り調べ室と見分けもつかない野党ともども、渋沢の言う「極論をしてはならぬ」を噛みしめていただきたいところです。

第32項、汚職の構造

御用商人とは、政府、官公庁、自治体などに物品を治める事業者のことだが、「何か悪いことをしているに者どもに違いない」と言う悪感情を持った思い込みが世間にある。

しかし、官の規定で選ばれた者たちであるから、道理をわきまえた者たちが多い。

選ばれたる者であるからその信用にかけても、官の者からいかがわしい要求があってもオイソレとは応ずるまい。官とて同様で、賂を誘われても断るだけのことだ。

にもかかわらず汚職事件が発生するのは官も民も道義教育が廃れてきている所以だ。

これを書いた当時、シーメンス(独)と海軍の間の贈収賄事件が報道されていたようです。

更に、三井が絡んだ贈収賄事件があって、企業に対する世間の信用が大きく低下していた時期にこの本を書いているようですね。

官公庁や、インフラ整備に関するビジネスは談合事件を含めて世間の注目が集まります。

入札制度などは、一見したところ公平な制度に見えますが、入札者が提案した中身はそれぞれ「似て非なるもの」です。安くても機能に劣る物から、高くても多機能なもの・・・色々です。

アフターサービスや支払い条件まで含めて「契約項目」は多岐にわたります。総合判断ですよね。

入札を、単なる投機ゲームととらえて嗅ぎまわるマスゴミ探偵が痛くもない腹を探ります。

企業も、人も、信用が命です。売り手にも、買い手にも、悪魔の誘惑はありますが、それをやらないでこその信用です。

官相手の商売は対価として払われるのが税金だけに、より慎重さが求められますね。民ばかりを相手にしてきた私などは幸せ者です。