敬天愛人43 仙ならむと欲す

文聞亭笑一

今年も残り少なくなりました。NHK「西郷どん」もあと2~3回でしょうか。その内の1回は西南戦争の場面でしょうから、次回は帰郷した西郷が悠々自適、狩りと野良仕事に熱中する場面でしょうかねぇ。西郷にとって、ほんの僅かな…平穏な生活でした。

ウサギ狩り

晴耕雨読という文字通りの生活です。晴れた日には野良に出て百姓たちと行動を共にし、また気分が乗れば犬たちを連れてウサギ狩りに出ます。なぜ兎か?と言えば、江戸時代は仏教の戒律の締め付けが強く残っていて「四足食うべからず」です。今でこそ「鹿児島の黒豚」と言えば、ブランド商品ですが、当時は牛や豚を食うなどはタブーでした。

明治の文明開化で欧米文化が入り、廃仏(はいぶつ)毀釈(きしゃく)の勢いもあって肉食の食文化が取入れられましたが、明治初年では横浜、神戸などの開港地やその周辺でしか「スキヤキ」も始まってはいませんでした。ましてや遠隔地の鹿児島ではタブーが続きます。

兎はなぜ許されたのか。・・・公式に許されたわけではありませんが「ウサギは四足の姿をしていますが鳥です」という詭弁を弄する知恵者がいて、ウサギは一羽、二羽と数える風習を作ってしまいました。これが肉食に餓えていた人たちの共感を得て瞬く間に全国に広がり、ウサギは例外にしてしまいました。

そんなこともあって、西郷さんは犬を連れて山野を駆け回ります。上野公園の西郷さんは首にひもを付けた犬を連れて立っていますが、この当時、犬に首輪などは着けません。西郷さんが鹿児島中を訪ね歩いて、選りすぐった優秀な猟犬ですから西郷さんとは以心伝心・・・言葉は使わなくても意思疎通ができます。

南洲公遺訓

西郷が下野、政界を引退して鹿児島に帰ったというので、西郷を慕う者たちも一斉に鹿児島に帰ってしまいます。陸軍の中心にあった篠原国幹少将、桐野利明(中村半次郎)少将などは勿論、岩倉使節団で訪欧し、大久保中心の政府で大臣級の役割が期待されていた村田新八まで帰郷してしまいます。雪崩現象というのか、時の勢いですね。

薩摩人が西郷を慕って帰郷してしまうのは、それなりに理解できます。「西郷」という精神的支柱があればこそ、中央政権で仕事ができましたが、その支柱が無くなったら「自分」を失ってしまう不安が強かったと思います。企業などの組織でも良くある話ですが、信頼していた上司が突然の転勤でいなくなると、何をしてよいのか・・・路頭に迷う…と言った感覚に陥ります。

西郷をしたって鹿児島にやってきたのは薩摩人ばかりではありません。出羽庄内藩の出身者が「留学」してきます。庄内藩・酒井家は維新前夜に江戸・三田の薩摩藩邸を砲撃し、維新戦争の発端となった幕府の中心勢力でした。その庄内藩士がなぜ西郷を慕うのか。

理由は戊辰戦争にあります。庄内藩は会津藩同様に僻地転封の沙汰が下りますが、藩内の全員、つまり百姓から町人までがこぞって赦免を陳情します。これに「ホロリ」ときたのが西郷さんで「転封が嫌なら70万円の賠償金を支払え」という交換条件を出します。

酒井家は全財産を売り払い、酒田の豪商・本間家も協力し、庶民も寄付を集めて30万円を集めます。それを見ていた西郷さん…情にもろい人ですからこの活動に感激してしまいました。

「もうよか。残りの40万円は免除しましょう。じゃっどん・・・おはんらぁは刀を捨てなさい。

代わりに鍬を握りなさい。藩内の荒地を開拓して農業を盛んにすべきです。それが今後の庄内藩民の生きる道です」

この処置に感激してしまったのは庄内藩の藩主以下、士農工商すべての人民です。「神様、仏様、西郷さま」と大感激です。西郷の言葉に忠実に従い、藩内の松が岡という台地の開墾にかかります。松が岡農業開拓団地というのがそれで、その中心に立つのが「西郷神社」です。

「西郷さんの教えを受けたい」

庄内藩の者たちは英才を選りすぐって鹿児島にやってきます。西郷の傍にまとわりつくようにして一挙手一投足、言葉のかけらを拾い集めて、出羽で待つ若者たちのための教科書を作ります。

これが・・・南洲公遺訓です。「敬天愛人」の文字も、この中にあります。

西郷の詩

西郷さんは鹿児島に帰郷した時の心境を、漢詩に詠んでいます。読み下し文で引用します。

----我が家の松籟(ショウライ;松の葉を揺らす風)塵縁(ジンエン)を洗い

----満耳(耳いっぱい)の清風 身 仙(仙人)ならむと欲す

----誤って京華(みやこ)名利(ミョウリ)の客(有名人)となり

----この声 聞かざること 既に三年

 故郷に帰った安心感・・・と云うか、1行目で落ち着いた生活の良さを歌います。

身、仙ならんと欲す・・・仙人のように、欲から離れた生活を送りたい・・・と詠みます。

懇願されて上京した3年間、忙しいばかりで本当の自分ではなかったなぁ

まぁ、こんな意味でしょうか。

ほんの短期間だけ…、仙人のような生活に戻れました。しかし、西郷を慕う薩摩藩士、庄内藩士、その他大勢の、他人の期待が西郷にのしかかってきます。西郷が「塵縁を洗い」たくても、西郷への期待は強まるばかりでした。

西郷さん、参議(大臣)と近衛都督の辞任は認められましたが、陸軍大将と三位の身分は辞任させてもらえていません。鹿児島に帰って、着流しで野良仕事をしていても「三位の殿上人」であり、日本に一人しかいない「陸軍大将」なのです。

この二つの辞任を認めなかったのは、明治天皇であり、そう仕向けた岩倉、大久保の陰謀でもあります。明治天皇は西郷が大好きで、信頼していましたから、西郷の辞表の受付を拒否しています。それを説得するために、岩倉は二つの役職を残しました。名誉職のようなもので、政治的実権はありませんが、それでも兵士たちには「俺たちの大親分」という親しみが残ります。

西郷辞任について大久保は、軍部が不安な状態になるのを最も警戒したようですね。

「もしかするとクーデターが起きるかもしれない」といった危機感です。

先週の番組で、西郷は辞任した後に大久保の屋敷を訪ね、大久保との友情を確かめ合うような場面がありました。司馬遼太郎の「翔が如く」でもそういう物語になっていますが、どうも・・・・・・そうではなかったようですね。大久保の日記に当日西郷が訪ねてきたという記録はなく、小西郷(西郷従道)伊藤などが来たとあり、老西郷(隆盛)が出立した噂などが書かれています。西郷と大久保の友情物語を演出した明治の小説家の物語が「史実」と混同されたようです。

・・・が、大久保は西郷の訪問を敢えて書かなかったということもありますね。事実は闇…。