敬天愛人 01 「西郷どん」の生い立ち

文聞亭笑一

あけまして おめでとうございます。

何がめでたいのか・・・などと無粋な疑問を持たずに「めでたきと 思う心の めでたさや」と素直に喜んでいる方が精神衛生上よろしく、それがまた心身の健康にもなるようです。

さて、NHKは昨年の「女城主・直虎」の不人気に懲りたのか、年末の総集編を軽く済ませ、今年の新番組「西郷どん」の宣伝も、あまりやりません。従って第一回目が何を、どう描くのか、全くわかりません。五里霧中です。しかし、舞台が鹿児島ですし、西郷さんの生い立ちを語るであろうことは読めますので、林真理子さんの小説のストーリの書き出し部分を念頭に置いて始めてみたいと思います。

京都市長 西郷菊次郎

原作の物語は「西郷どん」の息子・西郷菊次郎が京都市長として赴任する場面から始まります。

この当時は官選知事、官選市長の時代ですから、明治政府が地方の首長を任命します。薩長出身者が政府の中枢を担っていますから、勢い薩長出身者が主要な府県や都市の首長になります。

地方の県や、都市の首長には、元藩主かその後継者が任命されるのが普通でしたが、維新戦争で賊軍とされた府県には、反対勢力の監視の意味を含めて薩長出身者が派遣されます。

京都はそれに該当するのか…? 少し違いますね。京都は三条、岩倉などの公家などを中心に維新には多大な貢献をしました。政府の中枢にも人脈を持ちます。が、首都機能が京都から東京に移り、市民感覚でいえば「負けた」「中枢から排除された」という雰囲気が強く漂っています。このことは現代まで尾を引き、京都人の「東京嫌い」にも繋がっています。

花街、繁華街などで「どちらのお生まれどすか」などと聞かれて、正直に答えたり、うかつに本音を吐いたりすると、京都特有の「ぶぶ漬け」の餌食になります。とりわけ私のような…信州の山猿は「おお怖、義仲さんどすかぁ」と源平の昔までさかのぼられてしまいます。仕方がないので、ブロークンな関西弁に広島弁などを交えて「西の方じゃ」などと誤魔化して居りました。

物語は菊次郎が助役の川村(信州人)にせがまれて父親を回想する形で始まります。菊次郎は西郷の長男ですが、奄美大島での流人時代にできた子なので、正妻を迎えた後に籍に入り、次男ということになっています。西南戦争を父と共に戦い、片足を失っていました。

西郷隆盛の生誕地

良く知られている通り、鹿児島市加治屋町です。鹿児島城の本丸からは2kmとかなり離れていて、下級武士たちの町です。「遠い」と感じる方が多いと思いますが、城下町の町割りからすればそれほど遠くではありません。私の故郷・松本でも中下級武士の屋敷(西町)はお城から同じくらい離れていました。長屋ではなく、短冊のような土地で表には屋敷、裏庭には蔬菜類を作る畑というのが一般的な武家屋敷ですね。

近くを甲突川が流れます。この河原が子供たちの遊び場であり、武術の稽古の場でもあったのでしょう。薩摩で武術と言えば薩摩示現流・・・「チェスト」と叫びながら真向微塵に斬りこんでいく猪突猛進型の剣法です。技能、技術以前に、攻撃精神を重視する剣法で、守りの型などないに等しく、攻め一本ヤリです。

薩摩と言えば、太古の昔から隼人族の居留地として知られています。南方から日本に渡ってきた初期の縄文文化人ではないかと言われ、大陸から来た弥生人との抗争を繰り返します。勿論、薩摩の北には肥後の国(熊本)があり、そこにも南方系縄文人の熊襲がいました。この二国は、互いに連携し合い、初期のヤマト勢力(弥生勢力・日御子の邪馬台国)の南進を阻止しています。時には北九州に攻め込んで邪馬台国を追い払いもしました。神武天皇が日向の高千穂から東征という名の逃亡をしたのは熊襲、隼人に追われたからではないかという推論もあります。ともかく、古代史においては大和朝廷の敵対勢力のNo1で、狩猟漁労文化を守っていたようです。

それはさておき、「明治維新は中下級武士による革命である」と言われます。

侍の位でどの辺が上中下の基準か…藩に依ってマチマチです。上級といっても1万石しかない藩では千石取の侍はいません。百石もあれば上級です。では、薩摩はどうか? 表向きは77万石と、加賀前田藩に次ぐ全国第2位の大大名です。ですが…これは島津家の見栄で、実質は40~50万石程度ではなかったか、とも言われています。

島津は鎌倉以来の国持ち大名で、戦国時代にのし上がってきた前田、浅野、黒田などとは由緒が違うことを誇りにしていました。秀吉、家康に逆らいつつも「本領安堵」を引きだして家を守っています。しかし…実質は、逆らう都度に領地を減らされています。

40~50万石の経済規模で77万石の見栄を張るとどうなるか。

幕府からは77万石相当の賦役を要求されます。江戸屋敷もそれ相当な規模の消費を求められます。財政破たんをして然るべきですが、しなかったのは琉球の存在ですね。琉球を管理下に収めた貿易収入があればこその77万石でした。戦国末期の琉球は独立国でしたが、江戸期に入り幕府が薩摩の管理を認め、実質的に薩摩領土としています。いわゆる実効支配です。

話がそれました。加治屋町の話です。維新を推進した薩摩人の殆どはこの地域の出身です。

また、西南戦争で西郷に従って散ったのもこの地域の出身者でした。西郷人気というのか、西郷の求心力の強さの源がどこにあったのか、それを探るのが今年の大河ドラマ前半の主題ですね。

大家族の長男坊

西郷家の家系図というか…家族関係は別紙を添付しますが、当時としては至極当たり前の大家族が一つ屋根の下で暮らしています。我々の幼年時代もそうでしたが、田舎では叔父、伯母も含めて暮らしていますから、兄弟だけでなく、イトコ、ハトコまでが一緒です。

その長男坊に求められるのは「模範」です。一族の子供たちの手本として「かくあるべし」という縛りを受けます。これが辛いんですよねぇ。礼儀作法に始まり、学問の分野でも、武術の分野でも、ありとあらゆるところで「いい子」でなくてはなりません。とりわけ江戸時代は世襲制で、しかも長男継承が社会通念でしたから、我々の幼年時代とは比較にならぬほど厳しかったと思います。その上、褒められることは殆どありません。仮に他所の子より出来が良くても「もっと上」を期待されます。寅さんは「男は辛いよ」と嘆きますが「総領は辛いよ」という話なら私も諸手を挙げて賛成しますね(笑)

西郷どん・吉之助はその点では出来の良い子でした。「栴檀は双葉より芳し・・・」と云いますが、そんな感じの少年として育っていきます。

別ファイルで、吉之助が生まれた頃の鹿児島城下図と、西郷家の系図というか家族関係を添付しておきます。童門冬二「天が愛した男・西郷隆盛」からの引用です。

ともかく、初回を見てからですね。 NHKがどう演出するか、先ずはお手並み拝見。

<追記>  南洲公遺訓

正月、初回ですので1P追加します。

西郷さんは生涯に自分の書き物を残していない…と言われています。

「済んだことはどうんでもよか。今を精一杯生きるんじゃ」ということでしょうか。

ですから西郷伝説というのは、同時代を生きた他の人たちの評判が中心となります。

なかでも有名なのは、勝海舟の氷川清話にある坂本龍馬の言葉

「西郷とは鐘のような男じゃ。大きくたたけば大きく響き、小さくたたけば小さく響く」

です。相手の出方に合わせて自在に対応し、大きな決断を迫れば…驚くような決断を下すという意味でしょう。大人物とも言えますし、つかみどころのない人物とも言えます。

唯一、西郷が語ったものとして「南洲公遺訓」があります。「南洲」は西郷さんの号です。

これは山形・庄内藩の青年たちが西郷さんを慕って鹿児島の寓居を訪ね、共に起居しながら、百姓仕事を手伝いながら、聞きとった西郷の言葉をまとめたものです。

従って、近世版「論語」に近い構成で、論語は孔子の言葉を「子曰く…」と綴っていますが、南洲公遺訓では「師曰く…」のスタイルです。但し、書き出しの「師曰く」はありません。

西郷と言えば薩摩武士団に担がれて明治政府に対する反乱軍の頭目となり、西南戦争を起した人ですから「遺訓」を伝えるのは当然、薩摩人であろうと思いますね。が、そうではない処が

不思議で面白いところです。庄内藩と言えば、幕末は佐幕の筆頭格で、敵同士であった藩です。

この裏話を紹介しておきます。

庄内藩・酒井家といえば徳川譜代藩でも井伊家と並ぶ重鎮です。昨年のドラマに出てきた酒井忠次を祖とする名門です。260年の徳川治世下では大老職を出してきた主流派でもあります。

それもあって、幕末から維新にかけては佐幕派の代表のような立場を貫きます。とりわけ活躍が目立つのは、江戸市中を騒がせた御用党事件です。これは西郷が益満休之助などを使嗾して、江戸市中で強盗団を組織し、幕府の治安を混乱させようとたくらんだ事件です。

薩摩が黒幕・・・と判断した幕府が庄内藩に掃討を命じ、酒井家は三田の薩摩屋敷に逃げ込んだ益満たちの引き渡しを求め、三田の薩摩藩屋敷に大砲攻撃をかけます。これだけでも薩摩の恨みを買いますが、戊辰戦争が始まると庄内藩は率先して奥羽列藩同盟を呼びかけ、会津・仙台などと共に、その中核となって官軍に対抗します。

結果はご存知の通りで、官軍の攻撃を支え切れず降伏しました。

その処分です。官軍の大勢意見は「会津同様に、大幅減俸の上転封」ということでした。

ところが、それを聞き知った庄内藩の百姓、町人たちが赦免要求運動を始めました。

それも藩内の村々を挙げての大運動になり、署名活動は勿論、筵旗を立ててのデモも起きます。これを見た西郷さん、大勢に意見逆らい「70万円の賠償金を支払え」という処分を提案します。酒井家から直接被害を受けたのは薩摩だけでしたから、これが通りました。

庄内藩は藩主、藩士も領民も必死で金をかき集めますが、30万円しか工面できません。これを西郷さんに届け、期限の猶予を願うと「もうよか」の一言で、一件落着にしてしまいました。

この徳を学ぼうと、庄内藩の藩校では西郷が佐藤一斎の「言志四録」から抜き書きしたという101条の文章を学び直しますが、「西郷さん自身の解釈が知りたい」と留学します。

遺訓を書き残したこの留学生たちも、西南戦争を戦い、西郷と共に城山の露と消えました。