敬天愛人 42 征韓論

文聞亭笑一

東京での西郷さん、実に庶民的で落語に出てくる熊さん、八さん、与太郎の裏長屋に住んでいる・・・といった風情の映像が続きますが、これはやり過ぎです(笑)

長屋…には違いありませんが、西郷さんが住んでいたのは大名屋敷の中の侍長屋です。れっきとした武士の屋敷で、本宅、御殿を使わなかったというだけのことです。政府関係の来客の応接などは御殿を使い、日常は侍長屋で暮らします。薩摩の後輩たちとの応接は長屋の方でしたね。この方がお互いに気兼ねなく、薩摩風に無礼講ができたからです。

勿論、幕府の時代からこの屋敷に住んでいた武家の用人たちがいます。彼らは、侍というよりは庶民に近い身分で、江戸期の身分でいえば「卒」です。奴(やっこさん)と言った方が分かりやすいでしょうか。武士のようでいて、町人のようでいて、中途半端ですが・・・職人や商人よりは上の身分でした。こういう人たちがそのまま屋敷に居ついて、西郷家の下働きをしています。

召喚勅書

 西郷が・・・、というより肥前、土佐を中心とする留守政府が、次々と改革を進め、それを西郷が承認してしまうという政府の行き方に恐れをなしたのは三条実美をトップとする公家出身者でした。土肥の面々は「公家」という特権階級を認めません。認めないというより「男芸者」「ホモ」と蔑んでいる態度さえありました。

「このままでは公家の立場が危うくなる」危機感を覚えたでしょう。明治天皇に哀願して岩倉使節団に召喚命令を出してもらいました。

「あんさんら、遠い異国でなにをしてまんねんな えらいこってっせ

土佐のもんと 肥前のもんが 西郷さんとつるんで やりたい放題でっせぇ

はよぅ帰って とめておくれやす。お国がこわれてしまいますよって」

まぁ…こんな中身の召喚命令でしたね。三条実美の愚痴のようなものです。

西郷留守政府が始めた大改革3点セット(徴兵制、租税改革、学制改革)・・・訪欧中の岩倉や、木戸、大久保たちが知らないはずがありません。

知らされてはいましたが

「ま、いいか。どうせやらなくてはならぬことだし、帰ってから手直ししよう」

と、手直しするための知識習得に勤しんでいました。

ただ、気になったのは西郷がやたらと「参議」を任命し、肥前が4人、土佐が2人、薩摩1人と言ういびつな構造になってしまったことです。木戸も参議ですが、欧州にいますから口出しできませんし、大久保は参議ではありません。

しかも、長州出身の井上馨と山県有朋は汚職で閣議への参加資格を剥奪されてしまいました。自業自得と言えばそれまでですが、維新戦争に最大の犠牲を払ってきた長州としては黙認できません。事態の危うさを知って、まずは大久保が帰国します。ところが、木戸は帰国せずロシア・モスクワまで付き合って二か月遅れます。木戸にしてみれば、山県、井上の汚職は長州の恥さらしで、ほとぼりの醒めるのを待つしかなかったのかもしれません。

ともかく、大久保が戻ってきます。戻りますが…閣議に出席しません。

征韓論

西郷土肥の留守政権は朝鮮王朝の外交姿勢に腹を立てていました。

明治新政府は政権交代の節に、正式に朝鮮に使節を送り、新政権樹立を伝えました。

しかし、鎖国を国是とする朝鮮王朝は、欧米に開国して急速に欧米化政策をとる日本の新しい政府を承認しません。そうです、日米がシリアのアサド政権を認めないのと同じことです。

「ケシカラン!ヤッチマエ!」というのが血気にはやった軍部の意見で、後藤、板垣の土佐勢、江藤、大木の肥前勢は征韓論に傾きます。武力による恫喝で認めさせようという政策です。

これに反対したのが西郷どんです。

「使節を送って説諭しようではないか」

ただ、この当時東シナ海では事件が頻発していて、沖縄の漁民が台湾の現地民に襲われ、虐殺されるという事件も起きていました。その交渉に肥前出身の副島外務卿が清国に交渉に行っていたのですが、埒が明きません。

「交渉など時間の浪費だ。軍隊を派遣すべし」

つまり、征韓論を唱えたのは板垣退助、江藤慎平が最右翼でした。

「うんにゃ。半端な使節では埒が明くまい。

死ぬ覚悟で交渉すれば道は開ける。俺が行く、俺に任せよ」

これが西郷どんの主張で・・・その後も変わりません。西郷どんは一言も「朝鮮討つべし」とは言っていません。それなのになぜ?「西郷は征韓論を唱え、それが否定されて下野した」という歴史になったのでしょうか。

多分、国民的に人気の高い西郷さんが征韓論を唱えていたとした方がその後の朝鮮の植民地化、大陸侵略に都合が良かったからでしょう。西郷どんは本を書き残していませんが、手紙は随分と沢山書き残しています。そのどこにも「朝鮮討つべし」とは書き残していません。むしろ「外交で」と強調していますし「それができるのは俺だ」と主張しています。

ただ、誤解を残す表現として

「わしが殺されれば、それは日本が朝鮮に兵を出して討伐する大義名分となる」

と書き残しています。これをどう解釈するかですが、西郷さんは朝鮮王朝を説得する自信があって、反対派に対して「万が一」「あり得ない話だが…」と断って皮肉を言ったのではないかとも考えられます。

西郷さんが政界引退した理由として健康状態がありました。

一つは肥満に依る体調異常で、痩せるために下剤を常用し、朝議の途中でも何度も厠に立ち、そのために欠席裁判的に物事が決められてしまったということもあったようです。また、睾丸に菌が入る病気で肥大し、馬にも乗れない状態だったと言います。

明治天皇が臨席した習志野の陸軍演習で、西郷さんは天皇の乗馬の脇を徒歩で駆けまわったという「忠義」で有名な美談がありますが、あれは、忠義もさることながら肥大した睾丸の痛みと、ダイエットのためにドイツの医者から「歩け、走れ」と言われていたからかもしれません。

ともかく、長屋でのヤモメ生活では体力が持たず、弟の西郷従動の屋敷で療養生活を送ったりもしています。

健康のために引退…しかし、周りはそうは取りませんでした。