敬天愛人 29 西洋の風

文聞亭笑一

長州藩の上洛戦はいわゆる「強訴」という形式で、暴力デモ、クーデターという形式でもあります。百姓一揆とか、商家打ちこわしと同じ行動パターンですね。当初は戦争・・・殺し合いというイメージではなく、脅しあいの雰囲気で始めたのでしょうが、あちこちで局地戦が始まり、それが次第にエスカレートして、戦争にまで発展してしまったようです。

この辺り…久坂や来島といった長州藩のリーダ連中がどう考えていたかですが、会津・桑名を中心とする幕府軍が反撃しないと考えていたとしたら「甘い」というより自己中の塊りです。

久坂などは「天皇は攘夷を望んでいる。それを実行しているのは長州だ。その長州こそが誠の天皇の忠臣であり、御所の周りにいるのは賊である」と言った理屈だったのでしょう。守備する方は「長州は御所に向けて発砲した」と言いますが、久坂は「賊に向けて発砲したのだ」と反論するでしょうね。オーム事件の時、あぁいえばジョウユーが屁理屈の限りを尽くしましたが、久坂たちの理屈はあれと同じだったでしょう。理屈と膏薬はどこにでも貼りつきます。

この戦で京の町は戦国の始まり、応仁の乱以来の大火に見舞われます。京の都も中京、下京の殆どは焼け野原と化してしまいました。

征長軍参謀・西郷吉之助

蛤御門で戦ったのは7月18日の夜間からです。そして、翌19日には長州軍が壊滅し、殆んどの兵士たちは討ち取られてしまいました。天王山まで逃げた真木和泉なども逃げきれず自決しています。また、池田屋で逮捕されて獄舎に繋がれていた黒田藩士・平野国臣なども処刑されています。平野は西郷どんが月照と共に京から脱出する際に、逃亡の手助けをしてくれた盟友でしたが、敵味方に分かれ命を落とします。この戦と火災で京から過激攘夷派は一艘されてしまいました。京に隠れるにしても隠れ家すらありません。土佐の中岡慎太郎など、志士と言われる連中は、三々五々に長州を目指し逃避行です。

7月23日には「長州を討伐すべし」という天皇の勅許が出ます。

が・・・それを受けて、幕府軍の大将(総督)が決まりません。役割上から行くと慶喜が最適任者なのですが、これが・・・全く人気がありません。「二心殿」などと呼ばれていますし、「一会桑政権で政治を私物化している」などと批判され、幕府を支えてきた譜代大名の信用がありません。

「一会桑」というのは一橋、会津、桑名の意味で、禁裏守護と御所を守る立場の一橋、更に京都守護の会津藩、それに京都所司代の桑名藩です。

紆余曲折の結果、大将には尾張藩の徳川慶勝、副将に越前・松平成昭に決まりました。

徳川慶勝という人…、実は会津藩主・松平容保や桑名藩主の兄で、尾張、会津、桑名は兄弟なのです。実家の大須藩を継いだ長兄の所領を加えれば、この当時には兄弟で百万石を越えました。弟たちが京都で苦労していますから、嫌々ながらもこの役割を引き受けざるを得なかったのでしょう。あまり・・・やる気はありません。

西郷どんが・・・なぜか? 軍司令官(実務指揮官)に指名されます。

薩摩が幕府軍のうち、最も人数が多く、最新の装備をしていた最強部隊だったからでしょう。

幕府軍として召集された諸藩は、その殆どがやる気がないのです。

全国の諸藩にやる気がなかった原因は

1、金がない・・・どの藩も赤字経営です。長州(山口)遠征だって・・・出張旅費が払えないよ。助けてくれ!

2、兵士がいない…平時の官僚ばかりで、組織としての軍がありませんでした。その典型が旗本八万騎で、幕府直属軍が編成できず新撰組などの傭兵を使いました。

3、武器がない・・・槍刀、鎧兜の中世武器ですら、質屋の蔵の中です。それを見越した商人が値を釣り上げます。借金地獄ですねぇ。

要するに、ヒト、モノ、カネ、の総てがありません。これで「召集令状」を受けた諸藩は上へ下への大騒ぎでした。

この時期、養子縁組が異常に増えています。危険な戦争に行きたくない、貴族化した高給取りの当主が隠居し、養子を迎え、その養子を兵士として出陣させます。幼女と青年の結婚とか、…デタラメな形式ばかりが横行しました。しかし、藩や中央の政治に参加したい次男、三男、百姓身分の者にとっては千載一遇のチャンスで、藩にはやる気がなくても兵士にはやる気満々の者もいました。新撰組や、攘夷浪士たちの予備軍です。

……ともかく西郷は天皇の勅許に忠実に長州征伐にまっしぐらです。

勝と龍馬と吉之助

政府軍の体制が決まらず苛々していた所に、副将に決まった越前松平成昭から「幕府軍艦奉行並・勝海舟に会ってみたら…」というアドバイスが届きます。松平成昭は政治総裁・春嶽の息子です。西郷は長州に攻め入るのに軍艦が欲しいと思っていたのですが、この当時、軍艦を指揮できるのは咸臨丸でアメリカに行ってきた勝海舟しかいなかったのです。

西郷は軍事指揮官になった早々に大久保に手紙を書き「軍艦を2隻、外国から借りられぬか」と相談しています。戦力としていかに有力な存在か…戦略的価値をわかっています。島流しになっていた割にはボケていませんね。

薩摩に期待する一方で、幕府の軍艦の出動にも期待します。その意味では幕府の海軍の元締め、勝には興味が強かったでしょう。

「軍艦…」「軍艦…」と思っている所に、勝海舟の使いとして坂本龍馬が訪ねてきます。

これは勝海舟の方に事情があって、実は勝が軍艦奉行を解任になり、神戸海軍伝習所も閉鎖が決まっていたからです。「生徒の一部が池田屋の謀議に参加した」と言うのが、解任、閉鎖の理由で…なんとなく「モリカケ騒動と似ているな」などとニンマリしてしまいます。

勝にしてみれば、解任、江戸召喚…の次に来るものは「切腹」と覚悟していたらしく、死ぬ前に自分の想いを伝える相手を探していた雰囲気もありました。「西郷 Who ?」そんな感じで、子分の龍馬を西郷のもとに派遣します。

西郷と龍馬の出会い、勝と西郷の会見、…この辺りが歴史の妙ですが、この出会いがなかったら、日本の歴史はどうなっていたのでしょうか。勝と西郷の大阪会談は勝が自分の訪米体験を、西郷に伝えるためのものです。西欧の政治体制・共和制を西郷に伝え、「幕府なんざぁダメですよ」と「革新・維新」を促すために熱弁を振るいます。

江戸城無血開城もそうですが、この二人の会談は・・・真剣勝負、本当の会談ですね。