敬天愛人 39 引退?隠居?

文聞亭笑一

改革への情熱、燃え盛る火は収まりが利かず、北越から会津、東北を燃やし尽くし、函館まで延焼していきました。白虎隊、二本松少年隊、若い命が散っていきます。

神風特攻隊もそうですが、戦争で若い命が散るのは古今東西の共通現象です。中東のISもそうですしいつでもどこでも若者は戦争で命を失います。これは…善悪、正邪の価値観を学ぶ前に「主義」という名の麻薬を与えられて中毒症状のまま突撃してしまうからです。かくいう文聞亭も、60年安保では「特攻隊」にされかねない中毒症状の高校生でした。

人間社会は「2:6:2の法則」などとも言われますが「トコトンやる」2割の人がいて、「トコトン逆らう」2割の人がいて、6割の人が日和見します。この6割がいわば主流派で、勝馬に乗ろうと模索しています。先日行われた自民党の総裁選挙も同様でしたね。国会議員票は早々に日和見の6割が安倍派に雪崩れ込んでしまいましたが、それを見た一般党員票はブレーキをかける方向に動きました。日本人は「圧倒的勝利」は好まないのです。55:45、いや51:49くらいが一番落ち着くのかもしれません。

「宮さん 宮さん…トコトンヤレナ」

この歌を作ったのは長州の品川弥次郎とその愛妾の祇園の芸者ということになっていますが「トコトンヤレ」は「トコトンやれ」の意味でしょうから、長州人の、会津への憎しみを込めた歌詞でしょうね。ちょっと異常に感じる執念です。

西郷どん・・・燃え尽き現象か、新政府の流れに乗りそこなったのか、政治に嫌気がさしました。

官軍の優勢は明らかですし、その優勢を演出してきたのは西郷、大久保の薩摩ですが、戦場が拡大するにつけ長州や土佐の活躍も目立つようになりました。大村益次郎が作戦参謀として大活躍をします。近代戦の用兵術では、西郷さんの出る幕はありません。

さらに、上野戦争で活躍した肥前のアームストロング砲、会津城を砲撃した真田藩の佐久間砲など、新しいヒーローが次々に現れます。西郷どん、薩摩隼人の「チェストー」の出る幕が減ってきました。また、薩摩藩でも黒田清隆など若い力が台頭し、西郷どんの出る幕が減ります。

・・・と、これはあくまでも戦場、現場の話で、政治の中枢では人手不足に喘いでいました。

公家出身・・・岩倉具視くらいしか政治能力あるものがいません。三条実美がトップに祀り上げられていますが、この人は調整屋、宣伝屋ですから動力源にはなりえません。

長州も奇兵隊組は戦争が大好きで、それしか能がありません。木戸(桂)と、英国留学経験者の伊藤、井上などが政治に参画する程度でしょうか。

そうなると、大久保一蔵の存在感が高くなります。

西郷どん隠居か?

西郷が薩摩に戻ったのにはいくつかの理由が想定されます。

1、西洋かぶれのムードが支配する新政府の内部で浮いた

2、大村益次郎の卓越した戦略・戦術に、軍人としての自信を喪失した

3、岩倉、大久保、桂(木戸)などの専横に腹を立てていた

などなど、枚挙にいとまがないほど「理由」が想定されますが、一番の理由は「終わった」という達成感、目標喪失感でしょう。西郷どんにとって、明治新政府の樹立は「ゴール」でした。新政府の中身のことなどどうでもいいのです。徳川幕府が潰れて、天皇がトップに立つ政治形態ができたことで「俺の仕事は終わった」と感じていたのではないでしょうか。

鹿児島に滞在することが増えます。そんな時に、奄美に残しておいた菊次郎が薩摩にやってきます。菊次郎に次男の寅太郎、二人の息子と一緒に、西郷どんのマイホーム生活が始まります。西郷どんの日常は、得意の鰻捕りとウサギ猟です。犬を連れて、菊次郎も連れて、山野を駆け巡ります。上野公園に立つ西郷さんの銅像で連れている犬は、この頃飼っていた猟犬です。

「良い猟犬がいる」と聞いたら、すぐに訪ねて行って目利きをし、欲しいとなったらどこまでも粘って手に入れたようですね。明治維新の立役者、薩摩の英雄が熱心に口説くのですから断れませんねぇ。

東京遷都

政治が変わった…と知らしめるために「遷都」と「元号の改変」を行いました。

この時期、元号の改定が頻繁で庶民は呆れていたほどですが、僅か50年の間に10回の改元が行われています。改元というのは代始改元(新天皇の即位)、祥瑞改元(良い事があった)、災異改元(凶事があった)などです。西郷どんが生まれてから、明治維新を迎えるまでの10回の元号を順に並べてみます。

文政1817、天保1830、弘化1844、嘉永1848、安政1854、万延1860、文久1861、元治1864、慶応1865、明治1868

こうなると・・・もはや覚えきれませんね。歴史を繙く(ひもとく)縁(よすが)になり得ません。それもあって、西暦を併記します。そうしないと時の移りが分かりません。

さて、遷都ですがその理由について幾つかの説があります。

1、外国嫌いの公家たちの影響力を低下させるため

2、幕府時代の政治機構が江戸に集約されていた・・・それを利用する。

3、海外との窓口である横浜、ここと近くないと外交ができない

などですが、それ以上に経済的理由が大きかったように思います。

江戸幕府は基本的に米穀中心の経済です。藩という経済単位を石高で呼ぶなどと云うのがその典型ですね。その米蔵や流通の中心は大阪でした。しかし、すでに諸外国との経済交流が盛んになり、貨幣経済にせざるを得ません。外国との為替取引、相場取引など、横浜がその中心です。新政府の収益源も横浜での関税が頼りです。

伊藤博文が新橋横浜間の鉄道の建設を急いだのも経済、貿易を円滑にするために鉄道が必須のインフラだったからでしょう。明治3年に着工して明治5年に開通しています。この鉄道、その殆どが海上を埋め立てて線路を敷いています。薩摩藩が抵抗して土地を提供しなかったこともありますが、東海道筋は陸地に鉄道用地が殆どなかったからでもあります。広重の東海道53次図の品川宿、川崎宿、神奈川宿の絵はいずれも海岸線の絵が描かれています。