次郎坊伝 50 井伊の赤備え

文聞亭笑一

本能寺の変から伊賀越えの逃避行・・・家康と徳川家にとって、関が原以上の大事件だったのですが、さらりと流してしまいましたね。拍子抜けというか、まぁ主役が「直虎」ですから仕方ないかもしれません。

今回のドラマで本能寺の変は新説「光秀・家康共謀説」をとっていました。明智光秀の子孫と言われる方が書いた「本能寺が変」をそのまま採用したようです。この本…隠れたベストセラーで、26万部も売れたといいます。本能寺の変には幾つもの説があり、実際のところはわかっていないというのが正直なところのようですが、主だった説を挙げておきます。

1、光秀の怨恨説、単独犯行・・・丹波攻めの折、人質に出した光秀の母が見殺しにされた

2、光秀と朝廷の共謀説・・・天皇制の危機、近衛前久が中心となって動いた

3、秀吉と公家衆の陰謀説・・・光秀が決起せざるを得ないように、追いこんだ

4、足利義昭に依る幕府再興の陰謀

5、伴天連の陰謀説・・・海外文化の取りこみが終われば殺されるという危機感

6、光秀、長曾我部の陰謀説・・・光秀が長曾我部と約束したことを反古にされた

など、など、枚挙にいとまがないほどです。

現存する軍記物は、秀吉が天下を取ってから「太閤記」や「信長公記」に書かせたものが殆どですから、秀吉が陰謀に絡んだという説はありません。徳川の世になってからは、神君・家康が汚い陰謀に参加したなどという説は抹殺されます。家康は正々堂々としていなくてはなりません。

ともかく…この時点で信長は「恐れられ、嫌われていた」ということは事実だったでしょう。部下である光秀も、秀吉も、柴田勝家も、家康も・・・皆が皆、信長の行く方向に恐れを抱き、誰かが信長暗殺を実行するのを待っていた・・・ということでしょう。

また、山崎の合戦で敗れた明智光秀の首も確認されていません。これもミステリーを誘発します。「光秀=天海僧正」という説もあって、光秀は家康に匿(かくま)われて、その参謀として江戸の街づくり、更にはその知識を持って幕府開設の指導をした・・・などという説もあります。

やっぱりドラえもんの「どこでもドア」で見て来ないとわからぬ世界です。

井伊の赤備え

家康は本能寺の変で堺から逃げ帰るのに、10日ほど時間を費やしています。

その間に、秀吉は毛利と和睦して、いわゆる「中国大返し」の離れ業をやってのけます。一気に山﨑の合戦を仕掛け、明智勢を粉砕してしまいます。家康が弔い合戦を…と出動するころにはすでに大勢は決していました。家康としては東に向かうしか選択肢がありませんでした。

駿河は家康の傘下に入っていましたが、いまだ徳川の威が浸透している状況ではありません。

甲斐は信長の代官・川尻秀隆が信長流の皆殺し作戦を展開中で、旧武田軍の主だった者たちは山中に隠れて息をひそめています。北信濃では、本能寺で弟を殺された森長可が「弟たちの敵討ち」と旗本部隊を引き連れて木曽から美濃へと急行し、本領は留守にしています。中信濃では、木曽義昌が内政の失敗で嫌われていましたから、「この機に」と旧領主の小笠原が、筑摩、安曇を横領しています。南信濃では諏訪家も、伊那の保科家も独立志向を高めます。東信濃では真田昌幸が同様に動きます。この辺りは昨年のドラマで描かれた通りです。

つまり、甲信地区は武田信玄以前の戦国初期に戻ったような状況でした。

これを北条が放っておくはずがありません。上杉とて指をくわえて眺めてはいません。北から上杉、東から北条、南から徳川の3勢力が陣取り合戦に参入します。昨年の「真田丸」で放送された天正壬午の乱です。

詳細は省きますが、武田勝頼の築いた新府城をめぐって北条氏直と徳川家康が対決します。

この戦、真田の寝返りで信濃勢が徳川に就き、北条の大軍が兵糧に窮します。補給路を絶たれて和議を申し入れてきます。

ここで和議の交渉役(全権大使)に指名されたのが井伊直政でした。

指名された理由は、ベテランの酒井、大久保、石川などが信濃勢の調略をめぐって内輪もめをしていたことと、直政の真っ直ぐな気性が評価されたようです。家康の意図をあるがままに伝えるには、悪く言えば「世間知らず」の直政が、適任だったと思われます。

ほぼ、家康の思惑通りに和議がまとまり、北条は甲斐、信濃から撤退、そして上野は北条にという盟約が成立しました。

この手柄として万千代には従来の2万石に加えて、更に、駿河国内で2万石が加増されます。所得倍増ですね。そればかりではありません。旧武田兵の生き残り、74人が部下として万千代の傘下に入ります。

この兵たちは、かつて信玄存命中に武田24将と言われたうちの一条信龍、山県昌景、土屋正恒、原隼人佐の配下にいた精強部隊の生き残りです。74人と言うのは騎兵ですから、その3倍から5倍の歩兵が付き、総勢は300人ほどの軍団を新規採用したことになります。こうなると本多、榊原と並んでも引けを取りません。一軍の将です。

しかも、赤備えが許されます。赤備えとは武器、武具が総て赤色で、戦場ではとりわけ目立ちます。家康としては自分の意志を戦場で全軍に知らせるための「モデル軍」としての役割を井伊直政に託したのでしょう。

「井伊の赤備えの動きが、家康の意志である」

という役割です。その分だけ常に先陣を引き受けますし、消耗も激しいのですが、信玄の軍団の内でも最強と言われた山県軍の生き残りが中心ですから、武術、馬術の熟練度は当時の技術水準では最高の兵たちです。信長、川尻に殺されかかった所を救われた恩義もあって、井伊への忠誠度は井伊谷出身者同様に高い状態でした。

この山県軍、かつて三方が原で家康が散々に敗戦した折には井伊谷に侵攻し、龍潭寺を始め、井伊谷の村々を蹂躙した因縁の軍団です。そのことも…万千代の配下に付けた理由かもしれません。「かつての借りを返せ」そんな思惑も感じられます。

一軍の将が前髪立ちではいけない…と云うので元服します。万千代から直政に変わりますが、この時すでに22歳でした。

井伊直政と改名し、一軍の将となって井伊谷に凱旋した時、直虎は既にこの世の人ではありませんでした。「戦のない世に…」と願いつつ、万千代の活躍を願いつつ、冥途に旅立っていました。

井伊が家康から破格の厚遇をされたのは、多分、家康の妻・瀬名と次郎法師、万千代が井伊直平を軸にした血縁にあったからだと思われます。血縁の少ない家康としては親族同様の扱いだったと思います。 長らくのお付き合い、ありがとうございました。 

次郎坊伝・おわり