次郎坊伝 02 逃亡者

文聞亭笑一

いよいよ放映が始まりました。活発な子役の「おとわ」が山野を駆け回り、井伊谷の地理や歴史を紹介するのが第一話のコンセプトだったようです。山頂から井伊谷を見おろし、その先に浜名湖が広がる風景は、時代を越えて日本人の原風景のようにも思えます。古代から江戸期まで、日本人は狭い谷に住居を構え、農業を基本としつつ、川、水運を使って他地域と交流してきました。平地に大規模な街ができ始めたのは明治維新以降のことです。勿論例外があります。都など政治経済の中心地には、人が集まり、平地に大規模な住居が軒を並べます。農業ではなく、商業や各種の加工業者、それに専業武士たちは平地に集まります。その方が情報交流、集団作業に好都合だったからです。

前回は話題が盛りだくさんでしたね。井伊家の家族構成や、組織、それに今川義元まで出てきました。春風亭昇太・・・眼鏡を外すとこんな顔か…と、目を凝らしてみましたが「嫁に来手がいない」などとお笑いをやっているイメージと違って、戦国武将的威厳のある役を演じていました。彼を義元役に選んだということは、この先どういうストーリにするつもりなのか…、などと余計な推理をしてしまいます(笑)

おとわと亀の丞の婚約、直満の処刑、亀の丞の逃亡・・・を、第一話の中でやってしまいました。この間の事情について、もう少し丁寧にやるかと思っていましたが、意外にあっさりでした。おとわの曽祖父・直平も登場しましたが、少々説明不足の感は否めません。まぁ、一回目は顔見せ興行という意味合いもあるのでしょう。物語の本筋は第二話以降と理解しておきます。

亀の丞の逃亡

亀の丞が逃亡できたのは龍潭寺(りょうたんじ)の和尚・南渓の手引きによるものです。南渓は前回の系図に示した通り、直平の息子で処刑された直満の弟です。そして、おとわには大叔父(父の叔父)に当たります。

「井伊家は男系が途絶えてしまった」と言われていますが、南渓和尚が残っています。還俗すれば跡継ぎになる資格はあったのですが、あえて表面に出てきません。これも生き残りのための策の一つだったのでしょうか。

龍潭寺は臨済宗妙心寺派の禅寺です。今川義元やその軍師であった雪斎禅師も臨済宗ですが、こちらは建仁寺派ですね。龍潭寺の歴史は南北朝時代にさかのぼり、宗良親王(後醍醐天皇の皇子)が井伊家を頼って落ちのびて、この地で亡くなった時に建立されています。元々は733年に行基が拓いた地蔵寺が起源だとされています。寺の名前も地蔵寺→自浄院(初代・共保)→冷湛寺(宗良親王)→龍泰寺(直平)→龍潭寺(直盛)と寺号を変えています。禅宗になったのは前田吟が演じる直平の時で、息子の一人を出家させ修行に出しています。それが南渓和尚です。南渓は1589年まで生きています。おとわ(直虎)が亡くなったのが1582年ですから、おとわの誕生から死ぬまでを支えてくれた、父親代わりだったとも思われます。この物語では主役に次いで、重要人物でしょう。

南渓が亀の丞を逃がした先は、南信濃の松源寺です。現在の地名でいえば下伊那郡高森町、飯田市の北に当たります。この辺り、現在は「市田柿」の里として知られています。ここに松岡城と言う城があり、その城主・松岡貞正の弟・文叔(ぶんしゅく)禅師(ぜんじ)が住職をしていました。諏訪氏、小笠原氏の支配下から武田信玄が奪いとろうと工作を進めていた地域ですね。松源寺住職の文叔は、龍潭寺の元住職ですから、井伊家とのつながりもあり、南渓にとっても尊敬する先輩ですから、最も信頼できる避難場所でした。

余談ですが、この文叔禅師はその後、京都の本山・妙心寺の24世住持になっています。高僧の中でも高僧で、龍潭寺の跡を引き継いだ黙宗禅師も、その後、妙心寺の首座になっています。南渓はその二人の後を継いでいますから、僧としても優秀だったと思われます。

逃亡先としては最適ですが、問題は距離の遠さと、途中の剣路にあります。直線距離でも100㎞ほどありますし、南アルプスの高山を越えなくてはなりません。天竜川を遡るにしても谷が深く、川筋に沿ってでは危険です。西に迂回し、三河方面から設楽が原、長篠を経由して三州街道を抜けたのではないかと思われますが、その経路は定かではありません。

今村藤七郎

亀の丞の父・井伊直満の家老です。この人の活躍に依って、亀の丞はかろうじて信州高森まで逃げ延びました。物語では彼の活躍は描かれないでしょうが、今川の目を盗むために亀の丞を叺(かます)に入れて運んだり、井伊谷のあちこちを逃げ回ります。南渓が飯田の文叔と連絡を取るのにも、最短で4,5日はかかったはずですから、その間の逃亡は大変だったであろうと思われます。

その期間のことでしょうか、「直親の隠れ岩」と言う遺跡が残っています。三岳城に向かう道筋の岩場で、子どもが身を隠せそうな巨石群です。今川の追跡は執拗だったようで、その他にも右近太夫の狙撃という話もあります。小野和泉の命を受けた井伊家の家臣、弓の名手の右近太夫が信濃に向かう亀の丞を待ち伏せし、亀の丞の乗馬の蔵壺に矢を立てたと言います。雀すら射貫くと言われた名手が、狙いを外したとは思えませんし、二の矢、三の矢を発射していないのも変です。つまり、右近太夫は殺す気はなく、「やった」というアリバイ証明のために鞍を狙って矢を突き立てたということでしょう。井伊家の家臣は今川の命令に盲従していなかったということです。小野和泉より、井伊直盛にシンパシーを持っていたということでもあります。

今村家はその後も井伊家の重臣として仕え、正月元日には藩主の給仕役を務めるという作法が伝承されました。これは逃避行から信州高森での十年間、亀の丞と二人だけで過ごした時の伝統が、江戸末期まで残ったということです。井伊家最高の忠臣と言われた家柄ですね。

小野和泉守政直

今回は悪役として登場します。確かに、井伊家から見たら獅子身中の虫ですねぇ。井伊家の正統を無視して今川と結び、正統派の直満を処刑し、その子も殺してしまおうというのですから大奸物です。更には自分の息子を養子に入れ、井伊家を乗っ取ろうというのですから悪逆非道の輩(やから)です。

・・・が、そうでもないのは当時 井伊家の置かれていた立場です。今川義元が家中のゴタゴタを収め、かつ雪斎禅師の戦略、戦術のよろしきを得て駿河の地盤を盤石にし、更には遠江から三河へと成長路線をひた走る最前線に位置します。そういう戦略拠点で、独自性など主張できるはずがありません。逆らえば揉み潰されるだけでした。

現実派の政治家としては当然のことながら、今川の歓心を買う政策をとります。

直満、それに直義までもが刑死した謀反、陰謀事件も、小野和泉がでっち上げた冤罪事件だという説もありますが、それは「小野憎し」の情が入った話でしょう。前回でも触れましたが、直満が北条と結ぼうとしていた・・・と云う説は可能性が低いですね。武田と今川は甲駿同盟を結んでいますが、これは相互不可侵条約のようなもので、両者の帰属がはっきりしていない南信濃や遠江までは条約の範囲に入っていなかったと思われます。また、北条ですが、北条氏康は北関東の刈り取りに精を出していて、遠江になど全く関心がありません。今川と対峙しているのは伊豆の国の攻防で、井伊がどちらに就こうと、北条の戦局に影響しないのです。直満が通じようとしていたのは、ヤッパリ武田でしょう。

直満刑死事件で、小野和泉は今川家の目付という地位を手に入れます。これは「今川の直臣になった」ということで、子会社の社員が本社の社員に昇格したというほどの意味合いでしょう。そして、子会社の監査役に就任したことになります。今川家の序列でいえば井伊直盛と同格、ないしは、その上位職的な位置づけとも言えます。

これで、息子を井伊本家の婿に送り込めば「本家乗っ取り」の完成です。

汚い・・・と云うのが現代人の感覚でしょうが、戦国の世ではこのようなことは日常茶飯事です。下剋上とはそういうことで、戦争による下剋上は数少なく、閨閥(けいばつ)利用や、傀儡(かいらい)を送り込んでの乗っ取りの方が、圧倒的多数です。ビジネスの社会でもそうですが「清く、正しく、美しく」世の中が動いているわけではありません。犯罪行為スレスレのところで、血みどろの駆け引きをしています。ロシアのプーチン、中国の習近平、そしてアメリカのトランプ・・・どれもこれも、相当汚いですよ。自動車メーカーに脅迫まがいのメッセージを送るなどは政治と言うよりヤクザの手口ですねぇ。「清く、正しく、美しく」という宝塚歌劇団の標語を後生大事にしているマスコミや、有識者、専門家と言われる方々の理想が高すぎるのか、それとも、世間を知らない甘ちゃんか…ではないでしょうか。

まぁ、ドラマの世界ですから理想を追っても良いと思いますけれど・・・。「過ぎないように」したいものです。「過ぎたるは猶、及ばざるが如し」ですからね。そう言えばNHKもマスコミでした。

亀の丞の避難先・松源寺

ドラマの方は、おとわが悩んだ末に、自ら出家への行動をとるという挙に出た…という筋書きですが、そこいらはテレビに任せましょう。松源寺に匿われた亀の丞の方を追ってみます。

松源寺は市田の荘の地頭職を務める松岡家の城内にありました。松岡城は天竜川の河岸段丘の上に建ち、城の両側を中央アルプスから流れ出た河川が深い谷を作って流れ下っています。前は天竜川が洗う絶壁であり、左右は河川に削られた崖です。三方が天然の要害ですが、後方が開いています。こういう地形を舌状台地と言いますが、いわゆる半島地形ですね。

松岡家は安倍貞任の末裔と言われ、鎌倉以来、代々この城に住み、城の防御を強化してきました。天竜川に近い台地の先端に本丸を置き、二の丸との間には空堀を設けて、更に二の丸と三の丸の間も空堀…と、空堀で仕分けられた地域が五の丸まであります。このような城郭構造を梯状式山城などと云いますが、鎌倉期などに作られた城はこの形が多いようです。

松源寺は五の丸にあったようです。ですから、城下町の一角に立つ領主菩提寺の位置づけです。従って、寺に匿われたというより、松岡家に匿われたという方が正しいでしょう。松岡家は代替わりしていて、亀の丞を手厚く保護してくれたのは松岡貞正の孫に当たる松岡貞利だったようですね。我が子同様に本丸にも出入りさせ、武術を含めて、領主、藩主としての総合教育を施してくれたようです。

これは、南渓和尚との仏縁もありますが、やはり南渓からそれなりの資金提供があればこそでしょう。そういう点で、目立ちませんが裏で井伊家を支えていたのは南渓ということになります。初回では般若湯(酒)好きな生臭坊主の雰囲気で登場しましたが、この物語の座回し役でしょうね。出家するおとわ・次郎法師を教育するのは南渓和尚です。

それにしてもおとわ役の子役、勝ち気そうで、活発で、なかなかに可愛いですねぇ。第4話くらいまで登場してくれそうなので、楽しみです。

今回の物語の前段は史料の少ない部分なので、文聞亭の講釈もマイナーな話題になります。とはいえ、友人に飯田の近くで生まれ育った方が複数いますから、既に、またそのうちに、面白い話題を提供してくれることを期待しております。市田柿(干し柿のブランド)を齧りながらの原稿書きでした。