次郎坊伝 20 井伊谷三人衆

文聞亭笑一

今週は、男と女の三角関係が・・・実は四角関係であったと判明し、三角の二辺が仲直りをするというストーリのようですが、どうも・・・歴史物語としては・・・話が軽すぎます。生きるか死ぬかという戦国の世で、女同士が一人の男に好いた、惚れたという話は平和ボケの現代を再現しているようでピンときません。

一夫一婦制が社会規範として定着したのは・・・戦後です。それも昭和30年代に入ってからで、「子ができなければ離縁」というのが古代から戦後までの日本という国の社会通念でした。「家」と血統というものに重きが置かれ、跡継ぎを挙げ、育てるということに人々が執着してきたのです。雛祭りも端午の節句も、その意味では「子作り、子育て」の祭であり、次世代に家々の伝統を伝えていくということに大きな価値観を抱いていたのが日本社会です。

明治維新の時に、日本に来た外国人が「これほど子供を大切にし、可愛がる国民は見たことがない」とビックリするほど日本人は子供好きなのです。

白銀も 黄金も珠も なにせむに 勝れる宝 子にしかめやも

と歌ったのは万葉詩人・山上憶良です。この歌が詠まれたのは西暦700年ごろでしょうか。

男も女も関係なく、子供にかける愛情は世界に類を見ないほどの手厚さがありました。維新の時に日本に来た外国人は、父親が抱いたり、肩車したりして子供を可愛がる姿をスケッチ入りで数多く本国に報告しています。本音で驚いています。ヨーロッパにはない姿だったのでしょう。

今やその伝統が崩れて、児童虐待が横行し、更には親殺し、子殺しが報道を賑わせています。

「保育園落ちた。日本死ね」などと投稿した人は、どういう気持ちだったかわかりませんが、子育てを他人に任せてしまおうというのが・・・どうやら近ごろの若い世代のようです。他人任せでは、他人の思うようにしか育ちません。他人の言うことを聞いて自分の言うことを聞かないから折檻するというのは本末転倒です。

可愛くば 五つ教えて三つ褒め 二つ教えて良き人とせよ(二宮尊徳)

して見せて 言って聞かせてさせてみて 褒めてやらねば人は動かじ(山本五十六)

日教組が目の敵にする銅像と軍人ですが・・・教育の本質はこの二人の歌だと思いますねぇ。

松岡城での直親

以前にも書きましたから二番煎じになりますが、直親(亀の丞)が今川の討手を避けて避難していたのは信州・飯田のほど近い市田の里です。そうです、干し柿の逸品「市田柿」で有名な、天竜川に沿った河岸段丘の村です。

3月にロケハンを兼ねて仲間と訪ねた松岡城址・本丸からの景色がこれです。

遠くに見える白い嶺は仙丈岳、赤石岳など南アルプスの3000m級の峰々で、眼下には天竜川に沿って沃土が広がっていたでしょう。写真では家ばかり映っていますが、当時は豊かな田園が広がっていたものと思われます。

この写真を撮った位置は城の最も奥の位置・本丸からで、この先は絶壁です。写真に写っている平野の下から攻めてくるのは全く不可能です。攻めるには山側に迂回して攻め寄せるしかありません。その山も・・・主峰の木曽駒ケ岳を中心とする中央アルプスの峰々です。

しかも、この辺りの地形は、山から流れ出る沢に削られたリアス式海岸のように、櫛の歯のようになっています。裏にまわりこむことすら大変で、難攻不落の構えです。そういう城ではありますが、武田信玄に屈服したのは食料の補給ができないからでもあります。囲まれてしまえば…補給路もまた…ありません。干し柿だけでは一年持たないでしょう。

直親はこの地で10歳から20歳くらいまで過ごします。青春の真っただ中ですから、恋をするのは当然ですし、当時は男18歳、女15歳が結婚適齢期とされていましたから、子どももできます。直親はこの地で二人の子供の父親になっています。

一人が今回ドラマに登場する娘で、この子は井伊谷に帰るときに連れて行ったと史書には記載されています。ですから途中まで連れてきて、井伊谷のどこかに預けてあったのでしょう。

もう一人の男の子は、妻の実家に引き取られ商人として育ちます。その家系が現代にまで引き継がれ、飯田で先祖代々の麹家をしています。飯田地方の甘酒、清酒などの麹は井伊家を名乗るこの店の麹が使われているようですね。

井伊谷三人衆

ここまではチョイ役でしか登場しませんが近藤康用、鈴木重時、菅沼忠久の三人です。

この三人衆の立場を説明しておきます。

井伊家の・・・いわゆる家来ではありません。井伊家からは独立した豪族というか、地侍です。

ですが、井伊家の勢力圏内に所領がありますから、政治的後進に関しては井伊家の命令を聞かざるを得ません。

この関係は企業の親子関係に照らすとわかりやすいと思います。

遠州地方は今川ホールディングスの参加にあります。その子会社が井伊家です。その井伊家の協力会社(下請け)が三人衆の立場です。忠義だとか、忠誠心と言う感覚よりも、長年の婚姻関係で準・親戚感覚ですね。井伊家に繋がる血統が小野但馬と一線を画していました。

菅沼忠久

三河・野田城の主・菅沼家の傍流です。井伊谷を流れる都田川流域に根拠を構え、次郎坊の父・直盛、その後を継いだ直親の与力として、井伊家の方針に従って来ています。この地域はまた小野但馬の勢力圏とも重なりますから小野とも近しい関係にしなくてはなりません。

三河から分家して遠江に進出してきた家ですから、八方美人というか、周囲の力関係に敏感に反応し、家を守らなくてはなりません。小野とも、今川とも良好な関係を保ち、本家の三河友円滑な関係を保たねばなりません。そして親会社の井伊は、独立志向の強い直虎と、今川系の小野但馬が綱引きをしています。どちらにもつかず、どちらにもつく。地方小豪族の悲哀を代表するような立ち位置でした。

忠久の嫁は、同じ井伊谷三人衆の鈴木重時の娘です。その娘の母は井伊家の親戚・奥山家の娘ですから、血族関係は複雑ですね。それがまた、地位を守るための方便でもありました。

永禄11年12月、東海地方に政治的衝撃が走ります。東から武田が駿河に攻め込み、西から徳川が遠江に攻め込みます。その時、徳川を遠江に手引きしたのはこの菅沼忠久です。徳川に臣従していた本家の菅沼定盈の司令を受け、徳川軍の道案内をしています。

忠久の息子・忠道は、後に彦根藩主・井伊直政の家老職になっていますから世渡り上手だったのでしょう。そうでないと激動期は生き延びられません。

鈴木重時

井伊家とは最も近い関係にあります。重時自身は奥山家から嫁をもらっていますし、重時の姉は井伊直満に嫁入りし、直親を産んでいます。直親の母の実家なのです。

この人はどちらかと言えば「事なかれ主義」に徹した人のようで、孫が、井伊直政の養子にもらわれていますが、それ以外は記録にほとんど残っていません。戦国ドラマとしては面白味のない人ですが、これが殆どの我々の祖先でもあります。

徳川幕府の重鎮に出世した井伊直政にとっては祖母の実家です。なおざりにはできません。

私の祖母の実家のことを思い出したりします。保科正之に従って信州から会津に移った会津藩士でした。維新で下北半島に流され、岩手県の下閉郡田老町に流れ、祖母だけが遠縁を頼って信州に戻り、私の祖父と結婚しています。祖父がパーキンソン病で筆が使えなくなってから何年も年賀状の代筆をしましたから田老町のことは覚えています。津波被害の時も心配しましたねぇ。

・・・と云いながら、一度も訪ねたことはありませんし消息も知りません。でも・・・なんとなく絆を感じます。私と同じDNAを持った人が、かの地にもいるんだと…。

近藤康用

直虎に対しては「野党」のような立場で登場しています。菅沼、鈴木と同じく「地主・豪族」ですが、井伊家や三人衆との姻戚関係がありません。井伊家の与力、協力工場、代理店のような立場ですが、運命共同体というほど深入りしません。菅沼や、鈴木が株式の持ち合いをするほど井伊家と近いのに対し、独立しています。とはいえ、敵対はしません。

今回のドラマでは直虎の政策に抵抗し、批判する役回りを受け持つようですね。かといって、小野但馬と同調もしません。独立愚連隊の役割でしょうか。

・・・ともかく、

井伊谷の政治は揺れています。伝統的権威で現状維持を図る直虎、今川の権威をバックに権力奪取を狙う小野但馬、それを冷ややかに見守る三人衆・・・といったところです。