八重の桜 34 教育元年

文聞亭笑一

物語は明治6年から同10年あたりに進んでいます。この辺りになると、ようやく幕府の影響が薄れ、新政府の方針が地方にまで浸透してきました。中央の政争とは関係なく、明治の気風が各地に流れ込んできたのです。明治の気風とは、つまり、士農工商の身分制度の崩壊です。江戸市中ではやった歌があります。

半髪頭を叩いてみれば 因循姑息の音がする

総髪頭を叩いてみれば 王政復古の音がする

散切頭を叩いてみれば 文明開化の音がする

髪型の違いで、その人の思想、信条というか、時代への態度がわかると哂っています。

半髪とは、頭の半分を剃り上げた、いわゆる、ちょん髷のことです。総髪とは、髪を剃らず後ろに束ねるか、後ろに垂らした姿ですね。そして、散切りが現代の髪型に近いものです。各人思い思いですから、いろいろな髪型が混在していました。

学制令が公布されたのは明治5年ですが、各地でこの政令に基づいた学校設立の運動が起きます。とりわけ、この動きは朝敵とされた藩の地域で熱心でした。「すべてを失い、残っているのは人しかない」という切実感が、運動を加速させたものと思います。私の故郷の松本も朝敵藩です。それもあってか、重要文化財として残っている開智学校は明治6年の設立で、英文科と医学科の二つがスタートでした。越後長岡藩の「米百俵」が有名ですが、四国松山、高松や熊本なども維新政府に睨まれた藩ですから、教育熱は盛んだったと思います。

脱線ついでに私の母校の前身・松本中学は第17番中学(後に18番)としてスタートしています。中学設立は都市部からスタートしていますから、田舎では早い方だったでしょうね。長野県が教育県と呼ばれる基礎は、江戸時代に全国一の数を数えた寺子屋の存在と、維新後に率先して始めた学校設立の成果だったと思います。

会津藩出身の人々も、軍と学校に活路を求めました。

128、欧米の人々はキリスト教信仰を持ち、デモクラシーを体験していた。国や組織に無批判で従うのではなく、志を同じくする人々と連携して個人が社会を作るという、その考え方に、襄は強い共感を覚えた。こうした独立自尊の人間を日本で育てたいと思った。それには教育だった。

朝敵・安中藩士の息子である新島七五三太は、函館から米国商船で密航し、キリスト教の神学校で英語と神学(哲学)を学び、帰国します。米国滞在中に岩倉使節団の通訳を務めたことで、岩倉具視、大久保利通、そして木戸孝允と懇意になります。明治新政府の重職三人へのコネですから、役人になるつもりなら、外務省の高官として迎えられるところですが、七五三太の思いは「教育」にありました。

少し話題が離れますが、岩倉使節団がなぜ、欧米を二年もかけて回ったかと言えば、不平等条約の改正にあります。諸外国に渡してしまった治外法権が、政治外交上の最大の課題ではありますが、緊急の問題は欧米からの借金、つまり戊辰戦争で使った軍事費の繰り延べ要求と、為替レートの改定です。金銀の交換比率の話は以前に述べましたが、幕府が結んでしまった為替水準は、詐欺に掛かったようなものでした。このままでは日本の富が、湯水のように外国に流れてしまいます。ともかく、出血を止めないことには国の財政が破たんしてしまいます。この交渉は、なんとか成果をあげました。というのも、幕末に日本に来ていた公使などの外交官が、私財を蓄えるために汚職をしていたからで、正当な為替取引ではなかったからです。さらに、多くの随行員や留学生を従えていったことで、彼らの得た知識が、その後の日本を大きく変えることになります。目先の成果は得られませんでしたが、長い目で見たら欧米から文化の種を仕入れることになりました。

が、世間はそうは見ません。

条約は 結びそこない金は捨て 世間へ大使(対し)なんと岩倉(言い訳らむ)

などと批判した落首が流行りました。

129、この頃八重はハイヒールを履いている。靴は下駄や草履よりずっと機能的だった。駆け出しても脱げない。歩く速度が全く違う。役人などを中心に洋装の男は増えてきたが、女性で靴を履く人はほとんどいない。着物にハイヒールの八重を、物珍しげにじろじろ見る者も多かった。

靴は、洋式軍隊と共に入ってきました。江戸時代は仏教の戒律で獣を食することを禁じていましたから革がなかったのです。鎧や手袋などに革製品が使われることもありましたが少量でしたね。一般的ではありませんでした。

戊辰戦争と、その後の徴兵制で男には靴を履く習慣が一気に広がりました。官吏のほとんどは洋服に靴という姿に代わります。洋装することが、一種の社会的ステータスになったのです。このころからでしょうか、牛鍋なども流行り始め、皮革の調達もできて靴の国産化も始まります。が、女性のファッションは相変わらず着物が中心で、履物は下駄か、草履でした。その意味では八重のファッションは目を引きます。物珍しげに見るというよりは、批判の目で見ていたでしょうね。ましてや保守色の強い京都ですから、なおさらです。ほかの小説などでは、八重が僧侶の一団に取り囲まれて、面罵される場面なども出てきます。

130、佐賀の乱を皮切りに、各地で士族反乱が起きていた。 翌、明治九年には熊本で神風連の乱、福岡県で旧秋月藩宮崎車之助を中心とする秋月の乱、山口県で前原一誠らによる萩の乱が起きる。さらに明治10年には旧薩摩藩の士族が西郷隆盛を大将に、国内では最大規模の内戦になる西南戦争が勃発することになる。

征韓論で敗れた西郷隆盛、板垣退助、江藤新平などは国許に帰って政府批判の中心になります。本人の意思とは別に、失業した武士団が彼らを担ぎ上げて政治要求を始めるという成り行きです。佐賀・鍋島藩は薩長土肥と言われる維新の中核なのですが、新政府に登用されたものは多くありませんでした。大量の失業武士が地元にいたんですね。しかも、維新の活動に入るのが遅かったので血気にはやる連中が数多く残っていました。戊辰戦争の熱が冷めていなかったのです。

国内の不満にはけ口を海外に向ける…というのは、今も昔も政治手法の一つですが、向けられた相手にとっては迷惑至極な話です。現代では中国や、韓国が、国内政治の不満を日本に向けて「歴史問題」などと訳の分からぬ批判を繰り返しますが、この当時も武士団の批判のはけ口を、朝鮮の無礼な態度に向けていました。

佐賀の乱、神風連の乱、萩の乱のいずれも、西郷が蜂起することを期待していました。

が、西郷は立ちません。結局は各個撃破で鎮圧されます。なのに…なぜ西南戦争が起きてしまったのか?不思議なところです。

さらに意味不明なのは、大久保を中心とする政府で、金がないからと征韓論には反対しておきながら、台湾征伐と称して海外派兵をやります。この時は清国に交戦の余力がなく、沖縄の領有権を認めさせたり、台湾侵略に有利な足掛かりを認めさせました。

131、翌年、健次郎は、東京開成学校に教授補として採用され、やがて、東京帝国大学の総長を務めるなど、明治の教育界をリードする存在となっていく。

海外に留学していた山川健次郎が帰国します。そして、岩倉使節団に留学生として参加していた津田梅子や山川捨松も帰ってきます。欧米で先進的学問の洗礼を受けた者たちですが、彼らがまず始めたのは英学校でした。すでに国際語、世界共通語になり始めていた英語を身に着けることを優先しました。

「追いつけ、追い越せ」そのためには、まず彼らの言葉を知らねばならぬ、彼らの知識を吸収しなくてはならぬ…というのが教育の基本になりました。化学だ、法律だ、経済だといっても、なんといっても教科書がありませんからね。教科書のほとんどは英語です。初期の学校は、まず英語の知識を読み取って、それを日本語に翻訳して、しかる後に日本語の教科書を作る、という作業です。ですから、現代のように安易に外来語を取り入れることをしません。言葉の真意を咀嚼して、新しい日本語を、漢字を作ります。この作業は英語力と日本語力と、双方をフルに使わなければいけませんから、大変な作業です。

現代は、少々安易に外来語を取り入れすぎです。しかもそれを短縮してスマホなどという新しい日本語を作ります。結果だけを取り入れて途中経過を省略します。このことが…日本の技術力退歩につながらなければよいがと心配しますが、忙しすぎるんでしょうね。翻訳して熟成してというプロセスは省略されます。…てなことを書きながら、わたしもプロセスという外来語を安易に使いました。行程と書くべきですね(笑)