八重の桜 32 京の夏

文聞亭笑一

あっという間に三年間が飛ばされて、八重が京都に出てきてしまいました。追っかけ作者泣かせですねぇ。(笑)  しょうがねぇ…来る者は拒まず、去る者は追わず…トホホ

明治4年2月 御親兵と呼ばれる「国軍」が発足します。いわば新政府の直参旗本というか、天皇の近衛兵です。公募したところで集まるはずはないですから、まずは大久保が東京に居残った薩摩兵を国軍として提供します。そして大村益次郎、山県狂介(有朋)の長州兵が、「負けじ!」と参加します。が、土佐の板垣、後藤は、藩侯・容堂に遠慮してもたつきます。佐賀・鍋島の江藤、大隈も二の足を踏みます。維新の主力を薩長土肥と言いますが、足並みがそろっていたわけではありません。維新政府に最も熱心で、入れ込んでいたのは長州です。これは木戸(桂小五郎)以外が皆、庶民の出身で、帰るべき「藩」がなかったからです。藩に帰れば、身分制の封建社会ですからねぇ。山県有朋などは足軽の、さらに下の槍もち奴(やっこ)の家柄なのです。

薩摩藩は西郷が国許に引き上げてしまうように、一歩引いています。福井の松平春嶽、宇和島の伊達宗城、土佐の山内容堂など、幕末の賢公と言われた人々は高みの見物でしたね。

7月に廃藩置県をやります。これこそ維新です。藩をなくすということは、つまり、藩の軍事機能を廃止するということです。これほどの大改革はありません。鎌倉以来、戦国以来、兵力は地方領主が握っていました。信長、秀吉、家康の天下統一と言っても、軍事力は地方分権のままでした。藩兵が幕府に付いたり、朝廷に付いたりしていたのです。ですから会津藩兵も、幕府のために戦ったのではありません。会津藩のために戦ったのです。同様に、長岡藩も、米沢藩も、庄内藩も、南部藩も、みんな「藩」のために戦ったのです。日本という国家よりも「藩」という地方政権に重きを置いていたのです。その藩を束ねて、国家として君臨していたのが幕府でした。が…この時代の書物を読むと、面白いのは言葉の変化です。

江戸時代に「徳川幕府」という言葉は全く出てきません。では何と呼んでいたか?「ご公儀」です。「公儀隠密・柳生十兵衛」などという、あのご公儀です。だいたい、徳川という言葉を口にすることすら僭越で、うっかり口にしたら政治犯。「お家断絶、身は切腹」という、浅野内匠頭になってしまいます。では…、朝廷とは何だったのか。「神主の総元締め」でした。宗教的権威です。ですから、庶民にとって維新とは、「神主が政権を執る」ということです。

長い間、武士が為政者として威張ってきました。が、武士は地位が剥奪され、神主が祝詞をのたまう。それが天の声である…という大変革です。これって……わかりますか? 無宗教を自認する現代人にはわからない変革だと思います。一種の宗教改革ですからね。ある日突然、北朝鮮に拉致されて、「金将軍万歳」を叫ぶことになるのと似ています。

これを強引に推し進めたのが大久保利通、岩倉具視です。一種の宗教革命です。

それについていけなかったのが木戸孝允、後藤象二郎でしょうか。木戸は精神病にかかりますし、後藤は浪費三昧遊興に浸ります。会津陥落と同時に、維新の志士、主役たちは…分裂していきます。まさにガラガラポン、目まぐるしく派閥の入れ替え作業が起こります。出身藩という垣根は全くなくなり、政見を同じくする者たちが集合離散します。維新前夜よりも、維新の後の方が、ドラマチックなのですが、歴史教科書はこれを封印します。日本人が大嫌いな……、汚い世界ですからね。これって、現代に似すぎているのでしょうか。だから、明治は面白い!

121、八重は瓦屋根に跳ね返る陽光に目を細め、内庭に出た。うなじに濡れて貼りついた後れ毛を手で跳ね上げ、井戸端に立つと、冷気が心地よく浸み透ってきた。

八重は井戸の縁に板戸を渡すと、おそるおそるその上にのぼった。汗ばむ体には地の底からよじ登ってくる冷気が快く、糸をならし、針を運び始めた。

八重の面目躍如、おてんば娘の再現ですねぇ。

ある意味で、八重は科学者なのです。科学者の基本は「あるがままに見る」 という観察眼で、先入観を全く入れずに目の前に起きている現象を見ることですよね。その対極にいるのが宗教家で、物事を先入観で解釈します。「心頭滅却すれば火もまた涼し」…などというのはその極致でしょう。私などは、いんちき科学者ですが、それでも宗教的価値観よりは「事実」を重視します。事実を主として、知識を「推論」の材料として使います。「証明し、反証しなければすべて仮説」という、科学の基本に従います。政治も、経営も皆同じです。事実は何なのか……そこに本質があります。福島第一原発の事故、事実が全く明らかにされていません。最大の証言者、吉田所長も世を去りました。私など「自殺ではないか」と疑っているほどです。おっと!!、……この話をすると、収拾がつかなくなります。宗教的原発反対論者に命を狙われます(笑)

瓦屋根にという言葉と、うなじに濡れて貼りついたという言葉に、会津と、京都の差が出ていて面白いですね。同じ盆地ですが、京都盆地の暑さは日本一です。日本一不快です。私の生まれ故郷も、信州の盆地ですが、あの…じめじめした厭らしさはありません。「京の底冷え」などともいう通り、湿度が高いのです。だから…京都の人間社会も湿度が高い???

瓦屋根も、会津との違いを鮮明に表していて面白いですね。江戸時代に、都市の象徴は瓦屋根でした。江戸にも武家屋敷を中心に瓦屋根が普及します。しかし田舎は茅葺屋根です。板葺き屋根です。私の住む町も都市化が進んできましたが、最大の変化は高層マンションですね。平屋が二階建てになり、二階建てが三階建てになっても地域社会に変化は起きませんが、ここに高層マンションが建つと世の中が一変します。旧社会が破壊され、バラバラになっていきます。マンション住民が悪さをしているわけではないのですが、個人主義が、権利主張が、一気に襲ってきます。地域共同体が壊れていきます。会話がないんですねぇ。独立王国が突然乱入してきたようなものです。自治会という法人が町内会に参加してきます。町会費はマンションで一単位しか払いません。その代り権利だけは住民の人数分を要求します。寄付など、公的募金にも一単位としてしか、応じません。まぁ…そういう気安さを求めてマンション暮らしをするのでしょうから、文句を言っても仕方がありませんが、子供たちの扱いが難しい。町会費を払わない家の子供も、払う家の子供も「平等」にしなくてはいけませんからね。お祭りなどの采配は…本当に悩みますよ。読者の中にマンション族がおられましたら、わずか数百円の町内会費は払ってやってください。それ以上にお金がかかります。え!お祭りの音が五月蠅い。失礼しました。よその国の方でしたか。

かといって…村八分にすると…山口周南事件が起こります。いやはや…地域社会は難しい。

122、その八重を背後から、わざとらしい咳ばらいが呼んだ。振り返った八重は、母屋に行こうとする洋服姿の男が、帽子を手にして突っ立っているのに気付いた。それは兄を訪ねてしばしばやってくる男で、八重が聖書を習っている宣教医ゴードンが「ジョセフ・ニイジマ」と呼んでいる新島襄だった。

出会いというのは突然やってきます。しかも予期せぬ形でやってきます。だからこそ…価値があるんでしょうね。31歳にもなって、相変わらずお転婆な八重と、新島襄との出会いでした。

新島襄…上州安中藩の江戸屋敷で生まれています。NHKドラマでは佐久間象山の塾で兄の覚馬や西郷隆盛と出会ったことになっていますが、本当のところはわかりません。しかし、海外の文化に魅かれて、吉田松陰と同じく海外への密航を志したところは只者ではありませんでした。横浜、長崎からの密航は官憲の目が光ります。最も監視の緩い所はどこか。無法地帯の長州か、薩摩ですが、ここは別の意味で危険です。安中藩は板倉家、幕府の中核です。密航する前に、スパイとして処刑されてしまいます。ジョー、新島七五三太が選んだのは函館でした。監視が緩いわけではありませんが、役人たちが不慣れです。しかも、僻地に飛ばされたとやる気がなく、志気が緩んでいます。すんなり米国商船に潜り込み、密航に成功します。

佐久間塾で覚えたオランダ語。独学したり、勝海舟などと交流して覚えた英語、この基礎があって米国では厚遇され、キリスト教に入信し、宣教師の資格を得るほどになりました。欧米文化、先進科学技術を知るためには、まずキリスト教文化を知らねばならぬと考えたようです。

維新前後から、国禁を犯したり、公務で海外に出た人はたくさんいます。それらの人々が、それぞれの立場で感じ取ってきたことが「明治」という時代を作っていきました。

勝海舟、福沢諭吉は同じ船、咸臨丸で米国を旅してきています。が、勝が感じて、実行した海軍の充実や、その後の江戸城無血開城などと、諭吉が感じて始めた慶應義塾は違う方向を向いています。伊藤博文と井上馨は一緒に英国留学していますが、その後の政策主張は違います。人それぞれ、環境は同じでも、その手に入れる果実は異なります。その意味でも「有名校に入ればエリートだ」と考えるママゴンは大間違いですし、有名校出身者をそろえれば会社は安泰だ、と考える人事部は馬鹿ですね。人さまざま、そして社会の変化は予測できません。

123、女紅場は鴨川の西岸、土手町通りにある九条家の河原町別邸跡に、明治5年(1872)4月14日に開かれていた。初めは華族、士族の娘だけを対象にしたが、間もなく庶民の娘たちも入学が認められ、8歳の女児から38歳のお内儀までがやってくるようになった。

女紅場…名前だけ見ると女工哀史を連想してしまいますが、女学校のことです。覚馬の提案で始められ、八重はその舎監…つまり寄宿舎の管理人というか、生徒たちの躾を担当する教官の立場にありました。生徒から見れば、口やかましくて怖いオバサン…ですよね。ここで教えていたのは、現代でいう家政科、家庭科です。もちろん、読み書き算盤は基本ですから教えます。まぁ、現代の小学校での内容に、料理、裁縫といった高度な技術が加わったような内容だったでしょうか。

明治5年という年は、全校的に学校発足元年とも言えます。全国の公立伝統校と言われる小学校、中学校(現・高校)はこの年に創設されていますね。最近、藩校だった時代を含め、創立150年という催しが開かれます。寄付金を取られそうですねぇ…(笑)