八重の桜 01  お転婆娘

文聞亭笑一

先日、アメリカで銃の乱射事件があり、幼い子供たちが多数犠牲になりました。銃規制のない国、アメリカならではの事件かもしれませんが、山本八重の物語を始める直前ですから、なんとなく、嫌なものが…心に引っかかりました。

アメリカの南北戦争とその終焉、これが明治維新にも、間接的に影響しています。

南北戦争では大量の銃が使用されました。国を真っ二つに割って、国民全員が一丁ずつの銃を持っていた国が、平和を取り戻しました。そうなると銃は無用の長物となります。死の商人と呼ばれる兵器商を通じて、余剰の銃が全世界に流れ出します。これが、当然のことながら、日本にも流れ込んできます。火縄銃より高性能なゲーベル銃、そして、それよりも高性能なスナイドル(ライフル)銃へと、各藩の装備が近代化していきます。海外事情に詳しい、つまり国際センスを身に付けた薩摩、長州などの雄藩が、こぞって兵器の近代化を進め始めます。これが…維新前夜の日本でした。

1、八重は北出丸の中にいた。頭に鉢巻を締め、袖は襷で押さえ、スペンサー銃を構えていた。敵は「チェストー」と叫びながら進んでくる薩摩藩兵だ。敵の指揮官の姿を、八重の目がひたと捉えた。しっかりと目を見開き、照準を合わせた。唇を結び、引き金を絞った。銃が火を噴いた。

物語の冒頭は、戊辰戦争における会津鶴ヶ城での籠城戦から始まるようです。物語の主役、山本八重の前半生の、最も輝いた場面でもあります。

鳥羽伏見で幕府軍を破り、江戸城を無血開城させた官軍は、会津若松を目指して10万の兵が、会津の三つの出入り口から攻め込んできます。

白河を経て、郡山から猪苗代に通じる猪苗代口、日光から山越えする滝沢口、長岡から只見を通る越後口、それぞれに守備兵をおいて防衛線を布きます。

数を誇る官軍に対して会津藩兵は5千、それに江戸を追われた幕府軍、新撰組などの残党が加わります。それに奥羽列藩同盟の援軍がいますが、他藩の兵士は「ドンゴリ」と呼ばれるほどに戦意がなく、戦いの役には立ちません。 ドンゴリですか?

「大砲がドンと鳴ったら5里逃げる」という意味です。ドングリとは関係ありません(笑)

ともかく、兵力の差はいかんともしがたいものがあります。それに加えて、兵器が違います。新型の銃砲をそろえた官軍に対し、会津藩の主力兵器は火縄銃でした。

八重に狙われた薩摩藩兵、敵の指揮官とは大山弥助です。後の陸軍元帥、大山巌です。大山は日露戦争で旅順攻略、203高地攻略などで勇名を馳せた、日本軍司令長官です。

大山にとって幸運だったのは、撃たれた弾がライフルの弾丸だったことです。高速回転弾丸ですから貫通銃創で済みましたが、まん丸の鉛玉に食い込まれたら、その後の活躍はなかったかもしれません。弾丸は大山の太腿を貫通し、戦闘不能の状態にしてしまいます。指揮官を失った薩摩兵は、鉄砲玉の餌食になるのを恐れて、攻撃が鈍ります。北出丸の戦いでは八重のライフルの威力が十二分に発揮されました。が、残念なことに、会津藩にはライフルの弾丸の在庫がありません。八重が持ち込んだ弾丸の数は、銃に装着してあった7発のほかには、多くて50発、少なければ10発程度しかありませんでした。

2、会津藩の若殿様・松平容(かた)保(もり)は美濃高須藩主・松平義建の六男で、会津藩主・容(かた)敬(たか)の養子となった人物である。容敬は実の叔父でもあった。この日、江戸で生まれ育った容保が初めてお国入りするというので、城下は朝からただならぬ賑わいに包まれていた。

松平容保の生家、美濃高須藩は尾張徳川家の分家です。三万石の小さな藩ですが、6男容保は会津23万石へ、7男定敬は桑名11万石に養子に行きます。さらに、次男慶勝は、尾張藩62万石を継ぎます。元の高須藩を継いだ長男茂徳の3万石とあわせて99万石の兄弟です。兄弟合わせて33倍の増収とは、なんともうらやましい限りですが、生まれてきた時代が悪かったですね。徳川幕府が坂道を転げ落ちるときに、その徳川を支える役回りが、この4兄弟に巡ってきました。人生はあざなえる縄の如しです。

ついでですから容保の兄、慶勝について触れておきます。長州征伐では幕府の総帥を務めますが、その後の戊辰戦争では官軍に属し、弟の籠もる会津を攻めています。維新後は、弟たちの助命嘆願、復権に奔走し、斗南藩設立に尽力しました。写真が大好きで、撮りためた写真は1000点を越します。貴重な維新の記録で、その中には、大砲で穴の開いた会津鶴ヶ城も含まれています。

さて八重、若殿のお国入りを見ようと木に上り、晴れ着にかぎ裂きをこさえるなどのお転婆ぶりで、とりわけ兄・覚馬の扱う鉄砲に興味津々です。が、父も母も、女が鉄砲を習うことなど許してくれるはずがありません。

「ならぬことは、ならぬのです」と一蹴されてしまいます。

しかし、兄の覚馬と鉄砲…これが後の八重の人生を波乱万丈に導いていくことになります。

3、吉田寅次郎と宮部鼎蔵は、覚馬と酒を酌み交わしながら、奥羽に異国船が出没していると切り出した。そのために、これから越後、佐渡、津軽と廻るのだという。

第一回目の放送は、どうやら維新の主役たち総動員の顔見世興行の感があります。この項で長州の吉田松陰、肥後熊本の宮部鼎蔵が出てきます。尊皇攘夷派・薩長の理論的指導者となった二人ですね。そして次項では佐久間象山、勝海舟が出てきます。この4人と、八重の兄・山本覚馬が、面識があったことが、八重の人生を花開かせます。

この当時、東北・北海道方面に出没していたのは、ロシア艦隊と、アメリカ艦隊です。

ロシア艦隊は、カムチャッカを拠点にしていましたが、不凍港を求めて南下政策を進めていました。千島列島を南下し、北海道に達しています。幕府の関心が薄いことを幸いに、実効支配をしてしまおうと、執拗に工作を仕掛けていました。そうです。竹島や尖閣列島を狙って、コソ泥を仕掛けてくる現代の隣国、あれと同じです。

それに、もう一つがアメリカ艦隊です。当時のアメリカでは、南北戦争が終わって復興期に入っていました。良質な鯨油を求めて捕鯨が盛んに行われていました。鯨を追って北に南に、捕鯨船団が太平洋を駆け回ります。そうなれば、太平洋の西岸に、燃料と食糧補給の基地が欲しくなります。千島から沖縄まで、長々と延びた日本は、最適な候補ですよね。

これが…ペリー来航の、アメリカ側のホンネです。捕鯨のために開国を迫ったのです。

その国が、いまや…、反捕鯨のリーダだとは…、変われば変わるものです。

まぁ、それがアメリカ的、反省のポーズかもしれませんけどね。(笑)

4、ペリーの来航で幕府は品川に台場を築いたのだが、その守備を会津が担うことになった。ついては、有望なものを江戸にやり、西洋砲術を学ばせようということになり、砲兵隊長が覚馬を推挙した。
覚馬は江戸に着くと真っ先に、木挽町の佐久間象山の塾を訪ねた。

ペリーの来航は維新の幕開けになりました。彼の率いてきた4隻の艦隊は、当時の日本人の常識を根底から覆します。そうです、近世では広島、長崎に投下された原子爆弾ほどの威力で、日本人を打ちのめしました。ともかく、船というより、城が動いてきたのです。

大砲をぶっ放したわけではありませんが、舷側から突き出している砲門は、見たこともないほどに巨大で、その数も1隻に数十門あります。当時の雄藩でも旧式の大砲が4,5門しかなかったのですから、常識ハズレもいいところでしたね。

海に砲台を作って打ち払う、誰でも思いつく防衛戦略ですが、相手は自由に海上を動き回ります。これを防衛するには、東京湾だけで数百箇所の砲台が必要になります。馬鹿馬鹿しい話ですが、それでもマジメに考えた結果です。

佐久間象山…この人は当時の日本人の中では天才的数学者でした。長崎で入手した欧米の先進知識を、理解できただけで凄いことだと思います。語学は勿論、数学、とりわけ「π」 「√」などという概念を理解するのは至難の業です。

当時の日本にも平賀源内、関高徳、伊能忠敬など優秀な数学者がいましたが、「数学」に対して「算数」のレベルではなかったでしょうか。ましてや、政治家の大半は、算数すら「商人の技」と卑下していた時代です。兄、山本覚馬が象山の門をたたいたのは、大砲の設計が出来るのは、当時の日本でここしかなかったからです。お台場を築いても、高性能の大砲がなければ役に立ちません。

この塾には勝海舟がいます。吉田松陰も出入りします。後に坂本龍馬も入ってきます。維新の主役となった者達の養成学校の感がありました。佐久間象山は維新物語では、人物としての評判が良くありませんが、天才型の人は皆そうですね。織田信長も然りです。他人が馬鹿に見えて仕方がないのでしょう。独断専行、奇々怪々の人物に見えます。

兄と、塾生・川崎尚之助との出会い、八重にとっても重要な転機になります。