八重の桜 09  七卿落ち

文聞亭笑一

日本では歴史上、天皇は決断しない存在として描かれることが多いのですが、そんなことはなかったと思います。一個の人間として、知情意のすべてを備えているのですから、自ら裁断を下していたはずです。が、その政治機構である朝廷には公家機構があり、彼らが情報伝達を行いますから、天皇の意思がそのまま生かされるとは限りません。天皇が「○」と言っても、□になり、△になり、そして最後は「×」に変わることもあります。

この時期の孝明天皇がそれで、三条実美などが伝達ゲームよろしく、天皇の意思を自分たちの主張の方向に捻じ曲げ、都合よく伝えていたようですね。さらに、脱藩浪士たちが宣伝マンとして、攘夷思想を誇張しながら、全国を行脚します。

これは、現代でもよくあることです。首相の意思を閣僚が捻じ曲げ、更に官僚機構が捻じ曲げ、曲げながら順次実務者に卸していきます。年金機構などはその典型で、最高に長い伝達経路をたどるのではないでしょうか。最終的に支払いを実行するのは市町村ですからね。法律は一緒でも、運用には温度差が出ます。

企業でも同じです。社長の意思は途中の事業部、部、課へと伝わりながら変質していきます。○が×にはならないまでも、六角や□には代わりますねぇ。それが嫌だからと本社スタッフを強化すれば、お側ご用人が幅を利かせます。

天皇と三条たちの意思の相違が明らかになったのは、大和行幸計画でした。三条など長州派は、天皇を擁して大和から東海道を東に進み、箱根あたりで倒幕の旗を揚げるという計画でした。公武一和を意図している天皇とは、全く異なる計画だったのです。

33、照姫がお国入りすると言ううわさが流れてきた。八重は遊びに来ていた時尾と顔を見合わせて、歓声を上げた。飾りのススキを手にしていたユキも飛び上がった。

照姫は、会津の女性からしたら、スーパーヒロインでしたね。我々の時代の美智子妃という感じだったと思います。憧れの的ですよね。

知的で、もの柔らかくて、美人でと、三拍子揃った女性だったようです。左の写真は明治になってのものですから、40歳を過ぎていますが、それでも若い日の美貌は衰えていません。

容保が、天皇から拝領した衣で作った陣羽織姿の写真を送ってきたとき、照姫は前書とともに次の歌を読んでいます。

写真は美人と誉れ高い輝姫(《写真で見る会津戦争》(新人物往来社)より)

「少将の君より写真焼きといへるものを贈り給える」

御心の 曇らぬ色も 明らかに 映す鏡の 影ぞ正しき

ここで「少将の君」と言っているところが意味深です。

容保は既に中将に進んでいますが、照姫にとっては独身の頃の容保が常に心の中に住んでいたのでしょう。生涯片思いを続けたようです。歌の意味ですか?よくわかりませんが、写真と言うものへの驚きと、容保の無事の様子に安堵した心を、歌ったのではないでしょうか。

照姫のお国入りに、八重をはじめ、その仲間の女性たちが大喜びして当然です。

が、史書では、照姫のお国入りは鳥羽伏見戦の後と言われていますね。ともかく、戊辰戦争において、会津の女たちは「照姫様を守る」の一点に結集したと言います。

34、ついに孝明天皇は長州派を除く覚悟を決めた。
8月18日、子の刻、会津軍は、黒谷の本陣を出て御所へと向かった。
壬生浪士たちも、赤字に白く「誠」と染め抜いた大旗を御所内に翻した。
会津兵は、蛤御門と堺町御門の守りについた。薩摩兵は乾御門で構えた。

大和行幸を既成事実化し、着々と準備を重ね、天皇に実行を迫る三条一派に対して、

ついに天皇は堪忍袋の尾を切りました。会津と薩摩に、三条派の排除を命じます。

この工作に活躍したのは、会津ではなく薩摩でした。薩摩は、藩士で殺し屋として三本の指に入る田中新兵衛が、姉小路公知の暗殺事件に関与したとされて、朝廷から排除されましたが、その後も公家工作は続けていました。

一方の会津は、それが出来ず、天皇とのパイプは容保と天皇の間のホットライン一本しかなかったのです。京都では「田舎者」と馬鹿にされましたが、金がなかったわけでも、出し惜しみしていた為でもありません。朝廷への献金は、薩摩や長州に負けぬほどしていたのですが、すべて表金でした。つまり、財務省の税務署に納税していたようなものです。したがって、財務省を抑えていた三条一派の懐に入ります。敵に塩を送るようなものでしたね。誰にも感謝されず、死に金になっていました。

ただし、これが正しいことですよね。節税と称して脱税し、裏金を作って政治献金する政商が後を絶ちませんが、このときの会津を「田舎者」と言って嗤うことは、裏金の流通を是認することでもあります。

この政変の時、戦いは起きていません。会津の守る堺町御門を挟んで、長州とのにらみ合いに終始しました。にらみ合いが始まったのが深夜ですから、互いに相手の兵力が読めません。会津、薩摩2500に対して、長州は脱藩浪士を糾合しても500にも満ちません。ただ、公家たちは「長州はんは2,3万」と震えていたそうです。

夜明けとともに、その差が明瞭になっていきます。長州は逃げ出すしかなくなりました。

35、その夜、三条ら、攘夷派の7人の公家は、長州藩士とともに都を落ちた。幕府倒幕を狙った勢力は一掃され、8月の政変は終わったのである。

これが、いわゆる「七卿落ち」です。昔の教科書では「正義が通らず、名誉の撤退」のように書いてありましたが、名誉でも何でもありません。「このままでは殺される」と命からがら逃げ出したのです。後の初代宰相となる三条が「命からがら、なりふり構わず」では格好が悪いので、撤退と文字を飾ったのでしょう。この伝統でしょうか、後の帝国陸軍は撤退でも格好悪いと「転進」しています。(笑)

攘夷浪人たちも、その殆どは長州へと逃げますが、土佐浪人の多くは、当初計画どおり大和行幸の下準備に先発していて、逃げ遅れました。結局は、大和で自爆テロのような行動を起こし自滅します。薩摩からも、長州からも、見捨てられてしまったのが土佐勤皇党でした。気の毒ではあります。

政変とか、政局とか言うものは、いつの時代も代わりはありません。権力闘争です。

中央政権の勢力が弱まったと見れば、雨後の筍のように新党が続出し、一見マジメそうな旗を立てますが、やがて勢力の結集が始まると、いかにして勝ち馬に乗るかと、水面下での合従連衡工作が始まります。今現在の永田町や赤坂あたりでは、維新の時と似た状況が起きているのではないでしょうか。この工作を担当するのがマスコミだったりします。

勿論、半端な記者ではなく、大物記者、経営者が極秘裏に動きますね。Y新聞とA新聞は、それぞれ別の勢力として動いていることでしょう。MやNも、動きます。彼らこそ、現代の公家ですからね。「麿は中立じゃ」なんちゃって…。

36、その年も瞬く間に暮れ、年が明けて元冶元年(1864年)3月、覚馬と秋月は、容保に召しだされた。容保は大砲と軍艦の建造、そして海軍の必要性を説き、秋月に摂津の海岸の砲台構築工事の指示を、覚馬には洋学所を開き、改革を担う人材を育てるよう命じた。

軍艦、海軍の必要性が、これほど認知されるようになった背景は、関門海峡で、長州がコテンパンにやられ、さらに薩摩が生麦事件に端を発した薩英戦争で、鹿児島の町を焼け野原にされたからです。軍艦と大砲の威力を「これでもか!」と言うほど見せ付けられました。維新の原動力になった薩長が、誰よりも早く軍制を洋式に切り替え、海軍力を強化したのは、自らがその威力を味合わされたからです。

幕府も手をこまねいていたわけではありません。勝海舟をはじめ、海軍の必要性は薩長よりも早く気付いていたのですが、「決断できない政治」であるため、大型投資はすべて後回しにされていました。さらに、戦力投入の決断も出来ませんでしたね。

そう、先日までの民主党政権を思い出せば、当時の幕府をおさらいすることができます。

さて、この時点での各勢力の政治姿勢ですが、会津藩は攘夷派に属します。生理的攘夷論者の孝明天皇に、全面的に従っていますから…攘夷です。一方、手を組んだ薩摩は、薩英戦争以来、すっかり開国論に鞍替えしています。変わり身が早いと言うか、時勢が見えたんですね。英国との手組みなどの話し合いも始めています。

長州も攘夷ではないか…と思われるでしょうが、長州の攘夷は…そう、攘夷原理主義ですね。幕府の態度を含めて、この辺がややこしいのです。