竜馬艦隊大暴れ(第38号)

文聞亭笑一

幕府による長州征伐は明らかに内戦です。植民地支配を狙う欧米列強にとっては「待ってました!」とも言うべき機会ですが、この時点ではまだ、様子眺めです。幕府に肩入れしているフランスも、本国のナポレオン3世の治世がうまくいかず、積極的に介入する余力はありません。アメリカは南北戦争の後で、これまた余裕がなく、イギリスは薩摩支援の様子眺めで、薩摩が動いていませんから自重しています。

それに、彼らの居留地である横浜や長崎とは離れたところでの戦争ですから、言いがかりをつけるにも直接被害を蒙っていませんね。これは日本にとって実に幸運なことで、彼らの干渉があったら、事態はどう転んだか分かりません。その意味では外交音痴の朝廷や、結論先送りの幕府の対外姿勢が結果オーライに出たといえます。

竜馬は長州と薩摩の間で宙に浮いた米を積んだまま、長崎を出航します。長州に着けば、戦争の手伝いをすることになるだろうとの予想の上ですから、お龍は長崎においてきました。戦争に連れていくわけにはいきませんからね。

158、頭痛の種がある。相手の幕府艦隊の提督に勝海舟が任命されてはいまいかということであった。
もし勝が向こうの司令官であれば師弟合い打つ悲劇が起こらぬとも限らない。

勝海舟が謹慎を解かれて復職したと言うニュースはすでに長崎で聞き及んでいます。

竜馬にとって、勝との戦争は分が悪いのです。竜馬たちがいかに操船技術が上達していたとしても、所詮は勝から教わった知識です。勝を超えるほどに熟達しているわけではありません。先生を相手に戦って勝てる自信はないのです。師弟合い打つ悲劇などと情の世界で悩んでいたのではなく、戦術面で勝に勝てる自信がないのです。

この当時、幕府は頻繁な人事異動を繰り返しています。任命しても慶喜が気に入らないとすぐに罷免し、罷免しても「やっぱりあいつしかいないか」と復職させます。人事が全く安定しないわけで、これでは幕府官僚機構も機能しません。

現代が幕末に似ているのもそれですねぇ。総理大臣がコロコロ代わり、大臣はもっと頻度高く代わります。方針が一定でなければ、官僚たちは仕事のしようがありません。国家の危急の時・・・などと張り切ったら切腹させられそうですから、動かないのが処世術として最適です。しかも「官僚とは悪い奴だ」というマスコミの宣伝の元では、仕事をせずに静かにしているに限ります。政治主導とは掛け声だけで、何も指示しない政府こそ、国家を機能不全に陥れます。現代では戦争ではなく「選挙」というのが政争の道具ですが、どうも・・・選挙が大好きな人(?)蛙(?)がいるらしく、世の中が落ち着きません。

長州騎兵隊を創設したのは高杉晋作ですが、その後、奇兵隊は大村益次郎や山県有朋が実権を握り、高杉は海軍担当に代わっていました。竜馬の指揮官は高杉です。

159、「桂君、米を送るも義、辞するも義だ。義と義が衝突して米が宙に浮いている。 このままでは五百石の米が、ユニオン号の船底で腐ってしまう。いっそ、オレにくれんか。わが亀山社中が天下のために使えば米が生きるではないか」
「なるほど」
謹厳実直な桂が、はじけるように笑い出した。膝を打ち、しばらく笑いが収まらない。

戦争に参加する前に、やらなければならないことがあります。宙に浮いた米の始末です。

漁夫の利という言葉がありますが、これを、いけシャーシャーと提案する辺りが竜馬らしいですねぇ。こういう明るさが竜馬の何よりの魅力です。

桂にしても、長州の意地にこだわっている場合ではありません。幕府軍は、四方から長州目指して進撃が始まっています。

幕府は4方面から同時攻撃を始めている。

まず最初に、島伝いに瀬戸内海岸を押さえる作戦。

第二は広島から山陽道を進み山口に進撃する作戦。

第三は日本海、山陰道から毛利家の本拠地・萩に迫る作戦。

第四は関門海峡を挟む攻防戦で、小倉に本拠を置いて海を渡ってくる作戦。

陸路を進撃してくる敵には奇兵隊が当たりますが、第一のルートと第4のルートは船を使った上陸作戦になります。竜馬と高杉は下関の先、彦島を巡る海上戦闘に備えます。

高杉艦隊はオンボロ蒸気船と帆船の2隻、竜馬艦隊もユニオン号と帆船の2隻だけ、合わせて4隻の軍艦しかありません。対する幕府は蒸気船だけで7隻あり、旗艦の富士山丸は新造船で2000tクラスの巨艦です。普通にやれば勝ち目はありません。

高杉と竜馬は夜襲を仕掛けます。当時、レーダなどありませんから海戦は夜間にはやらないのが常識ですが、だからこそ、奇襲が大戦果になりました。幕府軍は敵がどこにいるかもつかめず、同士討ちをはじめます。敵味方が分からない乱戦ですから、大型戦艦には不利な関門海峡の狭い瀬戸を避けて、広島目指して逃げてしまいました。

これで関門海峡の制海権を握った長州軍は、海を渡って門司、小倉に攻め込みます。

160、長州軍はたった五百人の兵で幕軍を押し捲(まく)っている。奇兵隊は武士ではない百姓、町人の子弟である。それが小倉藩の正規武士団を押しているのだ。百姓、町人に押されて武士が逃げている。
「長州が勝っちょりますな」
「いや、長州が勝っちょるのではない。百姓、町人が侍に勝っちょるのだ」

高杉、竜馬が軍艦から門司の砲台へ艦砲射撃の雨を降らせます。その隙に山県有朋が5百人の奇兵隊を率いて上陸作戦を展開します。幕府軍は小倉藩小笠原を中心に九州全域から集まった1万人を超える勢力ですが、小倉藩以外はやる気がありません。幕府老中・総司令官小笠原壱岐守のお手並み拝見と、高みの見物で参戦してきません。

小倉藩も幕府のカネで新鋭兵器を備え、兵力は長州の倍以上ですから激戦になりますが、奇兵隊の方は下関戦争で英仏軍と戦った経験があるだけに戦巧者です。竜馬がユニオン号から小倉軍の裏側に放った艦砲射撃をきっかけに、一気に長州が優勢になりました。

小倉兵は城に逃げ込みますが、大将の小笠原壱岐守は、城を捨てて大阪に逃げ帰ってしまいます。これをみた細川、黒田、鍋島などの九州勢は一斉に帰国してしまいました。

小笠原家というのは、戦国時代から逃げるのが専門です。所詮は礼儀作法の家で、戦争は苦手なのでしょう。前の総理大臣同様に「学べば学ぶほど分かった」と言ったかどうか??

育ちの良い人に戦争、軍事のような危機管理は無理のようです。

161、尊皇と言う言葉がある。京の朝廷を尊ぶという概念で、これは当節、佐幕・勤皇を問わず読書階級のごく平凡な社会思想になっている。二十世紀後半の日本で言えば、民主主義、といった程度のごく常識的な、ありきたりの概念である。
が、勤皇と言う言葉は違う。幕府を倒して京都朝廷を中心に新統一国家を作ろうという革命思想である。尊皇の行動化した思想、といっていい。

この頃すでに、京都では薩摩の大久保一蔵と公卿の岩倉具視が倒幕の密議をはじめています。孝明天皇は大の幕府贔屓で公武合体の政治を理想としていましたが、天皇の意思とは無関係に革命勢力が倒幕に向けて動き出していたのです。

勿論、竜馬もその一翼をにないます。彼のできる範囲を大きく逸脱して、薩長という雄藩を動かすのですから命がけです。

まぁ、「友愛」という言葉も尊皇と似たようなものでしょうねぇ。友愛と言う言葉に文句をつける人はいません。人類皆兄弟と言った右翼の親玉もいましたが、美しい響きの言葉ですが、言葉に行動が伴って、初めて人を動かします。言葉だけでは何も変わりませんね。その証拠に党が分裂するようなガマとカンの戦いが起こっています。友愛の鳩はオロオロと飛び回るだけで、何も出来ません。友愛を言うのなら、少なくとも身内の争いなど起こさぬようにしてもらいたいものです。

修身、斎家、治国、平天下と言います。自分の言動がぶれない様にしてもらって、次には党内を一枚岩にまとめ、そして「国民の皆様方のお暮らしを守る・・・」ことを考え、さらに、世界平和に向けての友愛ですよ。足元がガタガタで友愛などと唱えても世間の物笑いです。

小倉城を逃げ出した老中・小笠原壱岐守と言い、沖縄から逃げ出した前総理と言い、育ちの良い方々は言葉だけが先行し、修身もできていないのに平天下を語ってくれます。

「ともかく行動」が最優先ですね。まずは経済を立て直すことから始めなくてはいけません。経済が立ち直れば、所得税も法人税も税収が増えます。税収が確保できれば、社会福祉でも科学技術振興でも、教育投資でも何でも出来ます。

命がけで経済の建て直しをするリーダこそ、現代の革命家かもしれません。