長州奇兵隊(第27号)

文聞亭笑一

幕府の長州征伐が始まります。軍令の降りた諸藩は、勇ましく、且つ嫌々ながらに山陽道、山陰道から長州に向かいます。戦争は莫大な費用が掛かります。この費用は幕府が出してくれるわけではありません。石高に応じて人数を揃え、自腹で遠征しなくてはならないのです。幕末、豊かな藩などありませんから、できるだけ遠くには行きたくないのです。

信州・松本藩の殿様などはうまく立ち回って、将軍の護衛の役を引き受けました。将軍は京都にいて出陣しませんから、京都まで行くだけでよいし、戦闘には加わりませんから、鉄砲も火薬も要りません。槍と刀だけで、きらびやかに仮装行列に参加するだけです。

加賀前田百万石も大変ですが、軍艦に詰めるだけの兵員を派遣し、「後詰め」と称して残りの兵員は港に待機させました。戦いが始まれば軍艦でピストン輸送する…というのが言い訳です。食料や宿賃が最も大きなコストですから、実にお利口さんです。

遠征軍の主力は西郷が率いる薩摩軍です。西郷は三田尻港に軍艦で乗りつけ、毛利藩を徹底的に脅しつけます。毛利藩を震え上がらすのに、薩摩の大型軍艦数隻は実に有効でした。

一発の大砲も、鉄砲の発射もなしに、毛利の殿様は震え上がって降伏します。

これを戦争抑止力というんですねぇ。鳩山さんは不勉強でした。

121、大阪の薩摩藩邸で年を越して慶応元年正月を迎えた竜馬も、むろんこの長州の絵堂という草深い村里の名は知らず、そこで何が起こっているかは知らなかった。
無論、幕府も知らない。
幕府が知れば驚愕するであろうが、長州藩内のことだから知る由がなかった。
絵堂で、正月早々、戦争が行われた。千人と二百人の小さな戦争で、内乱である。
戦争の規模から言えば取るに足らない事件だが、この戦争の結果が、幕末の日本史を大きく回転させることになったことを思えば、絵堂の戦争の意義は大きい。

今度の総理大臣は、なんでも長州の出身だとかで、自ら組閣した内閣に「奇兵隊内閣」と名をつけました。どういう意味合いがあるのか本人に聞かないと判りませんが、郷里の英雄である高杉晋作に憧れて育ったといいます。あやかりたいのでしょう。

絵堂での戦闘は、奇兵隊200人と、長州藩正規軍1000人の戦いで、山県狂介(有朋)の率いる僅か200人の奇兵隊が、2度にわたって正規軍を蹴散らす結果になりました。奇兵隊の組織は隊長が高杉で、山県が参謀という構成でした。兵隊は足軽、町人、農民、僧侶など、あらゆる階層からの志願兵で、長州正規軍の下部組織として位置づけられていました。旧来の武士的感覚で言えば「足軽鉄砲隊」以下の野武士隊でしょうか。

その意味では、この戦いは、軍が藩の方針に逆らって始めた、軍事クーデターなのです。

藩政の政治決心は「降伏」と決まったのですが、それを不服として軍が暴走を始めました。

後に、奇兵隊を発祥とする日本帝国陸軍が暴走を繰り返し、シナ事変から太平洋戦争に突進していきますが、彼らの成功体験が、日本国を敗戦に導いたと言う歴史も見逃してはいけません。山県有朋以下の長州奇兵隊は維新戦争、日清、日露の成功体験を積み重ねて、亡国の道を歩む遠因を作ったのです。

そうならないように…菅「奇兵隊内閣」にはお願いしておきます。

この戦勝で奇兵隊は、戦いとその社会的地位の二つで自信を得た。庶民が武装して軍制に入れられたのは奇兵隊が天下で最初であり、それが武士団を圧倒せしめたのも、この絵堂の戦いを以って最初とする。

庶民が武装して軍制に入れられたのは、確かに有史以来初めてのことです。戦国時代にも一部で庶民を戦争に活用したことはありますが、軍制に入れられたことはありませんでしたね。庶民が武装蜂起した本願寺門徒の戦いは、別次元の抵抗運動として捉えておきましょう。

この戦いの後、長州では高杉晋作が藩の実権を握り、幕府寄りの重臣たちを粛清します。

高杉は実質的に政権を奪い、倒幕の旗印を鮮明にします。この時点で長州は藩ごと、徳川幕府の支配から離れた「独立」を宣言したことになります。宣戦布告でもあります。

武市半平太も、実は…土佐藩でこれをやりたかったのです。

122、「坂本竜馬は世に巨人と聞こえているが、おおきに誤りであるな。
世の風雲、国家の危難をよそに、船乗り稼業に血の道をあげておるのか」
「そうガミガミ申すな。
人間というものはいかなる場合でも好きな道、得手の道を捨ててはならんものじゃ」
竜馬は、中岡慎太郎が討幕運動の第一線に奔走していることは、それはそれでいいと思っている。しかし幕府は倒れない。
「まだ倒れぬ」とみていた。

後に陸援隊として、竜馬の海援隊と協働することになる中岡慎太郎が、長州藩や、三条実美の使者として上京してきます。竜馬にも協力せよと迫るのですが、竜馬は取り合いません。海軍の夢を語るのみです。時期尚早…それが竜馬の情勢判断でした。

竜馬の読みでは、鍵を握るのは薩摩の動きで、薩摩が幕府寄りの立場をとっている限り、この国の体制は変わらないと見ています。薩摩が倒幕に動いたとき、世の中の歯車が動き出すのだと見ています。

いつの世の中でも「政権交代」というものは、ある日突然起きるものではありません。

国民の目が、政権のすることに不信感を抱き、あちこちに不満がたまり、特に政権を支えてきた支持層が離反したときに交代が起きます。

幕府を支えてきたのは米(こめ)経済の主役であった農民と、金融を支配する富商たちでしたが、彼らが、幕府が交わした不平等条約によるインフレで大きな不満を溜め込んでいました。

幕府への信頼が、著しく低下していたのです。

平成の政権交代も、極論すれば自民党政権の自滅ですね。未曾有といわれた不況に対して、ダイナミックな手が打てなかったことで、支持層の不満が極限に達したのです。

「一度やらしてみようか」これが政権交代の主たる動機です。

交代した後の政権も、自民党以上にひどいですが、総理大臣が代わってどうなりますか。

新総理は高杉晋作を信奉しているようですが、晋作のような短命では困りますねぇ。

123、竜馬は、政治家の目になっていた。この瞬間から、竜馬の胸に、ある種の色合いを帯びた情熱の火が燃え上がった。その情熱は、船キチガイといわれた今までの情熱とは、まるで違う場所から燃えているようであった。

長州征伐を終えて、西郷が大阪へ戻ってきました。西郷と竜馬はこの先の情勢分析について意見を交わします。このときすでに、長州では高杉奇兵隊による軍事クーデターが起きていて、庶民軍と長州藩兵の内乱(絵堂の戦い)が起こっていました。竜馬の、下克上的精神に火がつきます。「アメリカでは下駄屋の息子が将軍になれる」と、勝から聞いた話が甦ってきます。

日本を守る。そのためには海軍だ。船だ、船員養成だ。

これが竜馬の左脳、理性の判断から出てきた戦略です。

一方、竜馬の右脳、感情の分野からは、かつて上士に痛めつけられた苦い思い出が、高杉奇兵隊の蜂起とあいまって奇兵隊の活躍に喝采を叫びます。

「奇兵隊、ようやった。がんばれ、わしも応援したるきに…」という情熱の炎です。

武市半平太以下、死んでいった昔の仲間への愛惜と義憤の情でもあります。

この情熱が、竜馬を革命家としての活躍に導いていきます。

124、「いま天下は」と竜馬は言った。
「幕と薩と長によって三分されている。他の藩などは見物席で声を潜めちょるだけで、存在せぬも同じですらい」
と、竜馬は鉈(なた)で叩き割るような分析法で、ずけりといった。西郷は驚いた。

西郷が驚いたのは、他の藩などは見物席で声を潜めちょるだけで、存在せぬも同じですらいと竜馬が言い切ったことです。西郷は政治家ですから、雄藩連合…つまり連立内閣…による政権交代をもくろんでいますから、薩摩を取り巻く諸藩、とりわけ土佐藩、宇和島藩、越前藩、芸州浅野藩、会津藩などの動きに神経を使っていました。

幕府好きの天皇を抱える朝廷の公家たちの動向も心配です。どうしても、薩摩藩の立場からものを考えますから、日本全体を俯瞰することが出来ません。

「今後の日本の政治を担うのは幕府か、薩摩か、長州か」

単純明快な3択の質問に目から鱗が落ちます。言われてみればその通りなのです。

ここから、ここからです。竜馬の最初の功績である薩長連合に向けての政治工作が始まります。

竜馬の中では、すでに勝から聞かされている幕府政治の腐敗、無気力などの情報で、幕府を見捨てていました。幕府が続く限り日本は清国(しんこく)化する、列強の植民地として食い荒らされる、という切羽詰った危機感が支配していました。

特に、勝から聞かされていた小栗上野介のフランス借款の話には危機感を持っています。

小樽港、札幌周辺を担保(租借地)にして600万ドルの借金をすると言うもので、「国を売る」に近い交渉ごとです。

この間の事情は勝海舟の回顧録である氷川清話を引用しておきましょう。

小栗上野介は、幕末の一人物だよ。あの人は、精力が人に優れ、計略に富み、世界の体制にもほぼ通じていて、しかも誠忠無二の徳川武士で、先祖の小栗又一に良く似ていたよ。
一口に言うと、あれは、三河武士の長所と短所を両方備えておったのよ。しかし度量が狭かったのは、あの人には惜しかった。
小栗は長州征伐を絶好のチャンスとして、まず長州を倒し、次に薩摩を倒して、幕府の下に郡県制度を立てようと目論んで、フランス公使レオン・ロセスの紹介でフランスから銀600万両と年賦で軍艦数関を借り受ける約束をした。

小栗上野介は何度も紹介していますが、勝海舟のライバルです。家康以来の三河の名門で、又一というのは「又一番槍か」と家康から貰った名前です。咸臨丸のアメリカ使節団にも同行していますし、幕府にあっては勝や大久保一翁とならぶ海外通です。徳川慶喜には受けが良く、内閣官房長官といった役回りでしたね。

この契約が発効すれば、小栗の計画通り、長州は叩き潰せたでしょうが、英国と組んだ薩摩とは大戦争になり、究極は幕府と薩摩が仏英の代理戦争をさせられ、日本は真っ二つに分割されたでしょう。関が原か、箱根か、その辺りが国境線になり、現在の朝鮮半島と似た形になったであろうと容易に想定されます。

「薩摩と長州で手を組んで幕府を倒し、合議による新政権を樹立せよ」

西郷と話しながら、竜馬の頭の中にも、ようやくにして尊皇倒幕の基本戦略が姿を現してきました。勝や横井小楠から聞いた政治部品が甦ってきました。竜馬の右脳と左脳が連携を始め、部品が回路でつながりだし、「維新」という姿に統合されてきたのです。

このことは西郷も全く同じです。

二人して同時に、日本の進むべき戦略の姿が見えてきたのです。

増税議論をきっかけにして、現代の政治家も基本戦略の統合を図って欲しいものです。