お龍の機転(第34号)

文聞亭笑一

薩長連合の成立は、明治維新に向けて歴史の流れを大きく変える重大な局面です。

それだけに、すんなりと事がまとまったわけではありません。 前号にも述べたとおり、薩摩と長州の意地と意地がぶつかって西郷と桂の間では破局寸前にまでこじれました。

10日遅れで駆けつけた竜馬の仲裁がなければ、破談になっていました。

「長州に帰る」という桂を、竜馬が怒鳴りつけます。

「まだその藩なるものの妄想が醒めぬか。薩摩がどうした。長州がなんじゃ。 要は日本ではないか。小五郎!

薩長連合に身を挺しておるのは、たかが薩摩藩や長州藩のためではないぞ。 きみにせよ西郷にせよ、しょせんは日本人にあらず、長州人、薩摩人なのか」

停滞した物事は、視点・スタンスを変えると違った視界が開けてきます。西郷と桂は、それぞれの藩の立場から抜け切れず、藩という立場で悶々としていたのですが、竜馬は明確に「日本・日本人」の立場に立ちます。太平洋の彼方からこの国を眺めています。

こういう大局的視点に欠けた政治家ばかりなると・・・党利党略ばかりが横行し、国政は停滞してしまいます。政治家一人ひとりが「この国の形」を真剣に考え、物事の是非を判断してもらわなければ困ります。党議拘束なるものに縛られて、流されていくような政治家、陣笠議員などは無用の長物です。タレント議員で票を集めようなどという姑息な手段に走っていてはいけませんねぇ。ボタン押し機械を買い入れるようなものです。

この機械、一台につき6年間で2億円もするんですからね、大いなる無駄です。

145、竜馬は西郷に向かって叫んだ。「長州がかわいそうではないか!」
当夜の竜馬の発言は、ほとんどこの一言しかない。 後は西郷をさすように見つめたまま沈黙した。 奇妙といっていい。これで薩長連合は成立した。

竜馬と西郷の間で言葉は要りません。互いに、連合の必要性は分かりすぎるほどわかっています。単なる入口の手続き、感情の整理だけが必要なのです。

竜馬と、西郷のにらめっこです。「長州がかわいそう」竜馬のこの一言は、薩摩が優位な立場にあるということを認めています。優位なほうから歩み寄れ・・・と、薩摩から連合の呼びかけをするように促しています。

「きみの申されるとおりであった」西郷は同席する大久保に目配せして、薩摩からの申し入れに同意します。まぁ、政治決着というのは、いつ、いかなる場合でも、こんなものでしょうね。漱石は草枕の冒頭で「智に働けば角が立ち、情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ」と人間関係を分析していますが、意地の張り合いを仲裁したのは、竜馬の情の世界でした。理屈では解決しない世界です。

146、薩長連合は6か条よりなっている
一、幕長戦争が始まったら、薩摩は中立を装い京都に2000人を増派して、御所を固める
二、幕長戦争で長州が優位に立ったら、即座に朝廷を動かし、有利な講和に導く
三、幕長戦争で長州が負けそうになったら、薩摩は仲裁に入る
四、幕長戦争が起こらなかったら、薩摩は長州の無実の罪を晴らすよう働きかける
五、上記を幕府が妨害したら、薩摩は断固幕府と決戦に及ぶ
六、薩長は協力して朝廷の権力回復に尽力する

明らかな攻守同盟、軍事同盟ですね。第一条では「幕府を騙す」といっているのと同じことで、第六条にある「朝廷中心の政治」を目指すのですから、第五条の「倒幕戦争」につながってきます。二条、三条、四条は状況に応じての戦術の合意ですね。

この時点で、既に戦争は始まっています。10万を超える幕府軍は山陰、山陽、九州から、長州国境に迫っていました。大阪の大本営では将軍・家茂が出陣準備中です。すでに第四条の状況にはなく、第一条の実行段階です。

この盟約書を手に桂は長州に飛んで帰りますが、その際に竜馬に立会人としての裏書を求めます。竜馬は盟約書の裏に朱筆で「天地神明に誓う」と裏書し、これによって坂本竜馬の名は明治維新の元勲として歴史に刻み込まれることになります。竜馬の功績はこれと並んで、後の船中八策に示した大政奉還があるのですが、これは功名を後藤象次郎に横取りされてしまいましたね。

一方で、このころ、すでに饅頭屋長次郎が手配した武器と軍艦は長州に届けられています。

高杉以下、長州は大喜びで、長次郎は藩主高親から褒美の刀と礼金を貰っています。

これが・・・長次郎に英国留学の夢を掻き立て、結局は隊規違反を問われ、切腹に追い込まれる元になってしまいます。好事魔多し・・・竜馬にとっても痛恨の事件でした。

が、これが岩崎弥太郎にとっては亀山社中を差配するきっかけになります。長次郎を失って、亀山社中には商売の分かるものがいなくなってしまったのです。

人間万事塞翁が馬・・・ですかねぇ。

147、「土佐の坂本がしきりに京大阪に出入りしているのは・・・何かある」
という異臭を幕府の治安部隊はかぎつけていた。
その異臭が、まさか薩長連合の肝煎りだとは思わなかったに違いない。彼らは竜馬が、将軍か、将軍後見役の一橋慶喜の暗殺を企てていると受け取っていた節がある。

時の伏見奉行は上総請西一万石の林肥後守でした。いわば典型的サラリーマンです。

「竜馬は寺田屋を常宿にしている」という情報は手にはいっています。薩摩藩士を名乗るが、土佐浪人の坂本竜馬だと、すでに捜査結論が出ています。

見つけたら召し取る。寺田屋の周辺には非常警戒網を敷いて待ち受けます。

ところが、肥後守にとってはライバルの新撰組、見回り組みも寺田屋に目をつけています。新撰組などは「御用改め」を繰り返しています。治安部隊の中で、手柄争いが過熱化していましたね、これが、竜馬には幸いしました。

竜馬召し取りプロジェクトは、総合力を発揮しないどころか、バラバラだったのです。

伏見奉行は「竜馬、寺田屋に入る」の情報を得て、奉行所役人だけで逮捕劇を企画します。

侍、捕り方あわせて100人、寺田屋を取り囲みます。

148、お龍は風呂の窓を閉めようとして、あっと声を呑んだ。
裏通りにびっしりと人が並んでいる。提灯が動いている。<捕吏>と思ったとたん、お龍はそのままの姿で湯殿を飛び出した。自分が裸でいる、などと考えもしなかった。
夢中で二階に駆け上がり、奥の一室に飛び込むや
「坂本様、三吉様、捕り方でございます」と小さく、しかし鋭く叫んだ。

竜馬物語の中でも、特に有名な場面ですねぇ。素っ裸のお龍が駆け上がって急を告げます。

私などは恥ずかしくて、女性の裸などはこの程度しか描けませんが、びっくりしたのは竜馬も同じだったようです。

慌てて自分の着ていたドテラをお龍に着せ、面倒を見ている間に、戦闘準備が遅れてしまいました。

三吉慎蔵は、袴を着け、刀と槍を準備して戦闘体制に入りますが、竜馬のほうは袴を着ける暇がなくなりました。

寝巻きのままです。

この差が、竜馬の負傷につながりましたね。竜馬らしくなく、動転していたのです。

戦闘場面を書くと長くなりますから割愛しますが、竜馬にとって幸運だったのは、相手が新撰組でも、見廻組でもなかったことです。サラリーマンの警察官でした。

命知らずの、功名心に燃えた新撰組だったら、多分、竜馬の命はなかったでしょう。

奉行所の役人たちは遠巻きにして、「無駄な抵抗はやめろ」と叫ぶだけです。竜馬は高杉から貰った六連発のコルトをぶっ放します。至近距離に来た役人の一人は、この銃撃で即死しますが、残りの4発は負傷させただけのようですね。

竜馬は負傷しますが、何とか薩摩藩伏見屋敷に逃げ込みます。

が、このときから竜馬は殺人犯として幕府のお尋ね者になります。それ以前もお尋ね者でしたが政治犯の扱いで、勝海舟が復職すれば、勝の一番弟子という身分で、罪人ではなくなるレベルでした。

この事件以降、殺人犯となった竜馬の身辺は、生命の危険と隣り合わせになります。