六文銭記 30 夢のまた夢

文聞亭笑一

今回の秀吉役・小日向文世さんはなかなかの名演技ですね。秀吉を襲う焦燥感を実に見事に演じています。三谷脚本は秀吉の末期を「認知症」として描いていますが、意のままにならぬ焦燥感、それが高じて支離滅裂になっていったようにも思います。前回、失禁を寝小便として描きましたが、それだけではなく、四六時中垂れ流し状態になっていったのではないでしょうか。だからこそ、周りの者は有力大名たちとの面接を回避しようとします。奥の女性たちも敬遠します。裸の王様…というか、親身に面倒を見てくれるのは正妻の寧々だけになっていったのでしょう。

遅かれ早かれ、我々にも巡ってくる加齢現象ですが、最近は良いオムツができました。臭気を閉じ込めてくれます。ご心配の方はどうぞ(笑)

派手好きで、賑やかなことが大好きな秀吉にとって、誰も近寄ってこないという状況では神経が正常でなくなります。鬱屈が溜まります。そこで、思いついたのが醍醐の花見です。

醍醐の花見

秀吉は、その全盛期に吉野の花見をやっています。「あの時代に戻りたい」という願望が強かったのでしょう。もう一度、あの頃の自分に戻りたいという思いと、秀頼の姿を披露して一般大衆にも後継者として認知させたいという思いの双方だったと思います。更には、慶長の大地震で被災した民衆に「祭」をプレゼントすることで、社会の活気を呼び覚まさせたいという政治的狙いもあったと思われます。決して認知症のボケ老人の考えではなく、政治家としての執念のようなものを感じます。

京の醍醐寺、元々桜の名所として知られていましたが、この寺の境内に大規模な手を加えます。京都、奈良はもとより、吉野まで範囲を広げて、名木と言われる桜を根こそぎ集めました。将に「大阪花博」同様な「醍醐花博」ですね。利休の目指した侘び寂(わびさび)の文化とは全く正反対の豪華絢爛な文化です。

「死に花を咲かせる」という言葉がありますが、まさにそれでしょう。安土桃山文化の集大成を醍醐の花見で実現してみせようという心意気だったと思います。事実、会場の工事中に二度、秀吉自身が視察に訪れ、あれこれと指図をしたと言われています。そのことも、弱っている体力を消耗させる一因になったのでしょう。

伏見から醍醐までの行列は、過去の歴史にないほどの絢爛豪華なパレードだったようです。

しかし、秀吉の意に反して警備の人垣が分厚過ぎて、大衆に見せつけようという意図が十分に発揮されず、秀吉はかなり不満だったようです。石田三成はじめ側近が、テロや、秀吉の衰えを見せまいと気を使いすぎました。

更に、行列の順番をめぐって女同士のいざこざもあったようで、これも秀吉の気分を害しています。どうやら淀君(茶々)が「秀頼の生母である」と女行列の先頭に立ちたがり、正室の寧々をないがしろにしようとしたようで、こんなことが秀吉死後の寧々と茶々の関係にもつながっていったようです。「女賢しゅうして牛売りそこね…」などとも言いますが、茶々のこういう態度が豊臣家臣団の結束にヒビを入れ、更に亀裂を拡大していきます。

文聞亭は決して男尊女卑思想の持主ではありませんが、自尊心が強すぎる女性の場合、感情が表に出過ぎて大局を見失います。クリントンさんや小池百合子さんがどうなのか、なってみないとわからない部分はありますが、感情を制御できる人でないとリーダは務まりません。そういう意味でイギリスのサッチャーさんや、ドイツのメルケルさんは偉いですねぇ。女性にありがちな「好き、嫌い」が表に出ません。

醍醐の花見は盛況でした。その意味では秀吉の意図した通りの成果だったのですが、秀吉の衰えと、秀頼の幼さは誰の目にも明らかになりました。「秀吉の死後…」について、大名たち政治家ばかりでなく、一般大衆までが考え始めます。しかも…、その大半が戦乱を予想します。

蒲生と上杉

物語には全く出てきませんが、この間に五大老の一人、上杉景勝が、越後50万石から、会津120万石に国替えになっています。この後に続く政争、更には関が原の合戦の発火点になりますので触れておきます。

小田原征伐の後、会津には蒲生氏郷が封じられました。信長から「近江の麒麟児(きりんじ)」と称賛された文武両道の器量人です。秀吉にとっては信長配下の時代の同僚ですし、実力的にも怖い存在なので遠国に配置したということでしょう。それに、蒲生氏郷は家康、伊達とはそりが合いません。関東の家康、東北の伊達政宗の双方を睨む位置において、牽制する役目を与えていました。

朝鮮出兵の折、「猿め、狂ったか」と発言したのは有名な話ですが、それが原因かどうか・・・・・・慶長の役の最中に変死しています。毒を盛られたという話がありますが、上記の発言が秀吉の耳に入ったのは確かなようです。同様に、同じころ信濃・深志の石川数正が変死しています。こちらはフグの毒に当たったということになっていますが、朝鮮征伐には消極的発言をしていますから、相当に怪しいですね。

蒲生氏郷を殺ったのは三成説、政宗説、家康説など様々。石川数正を殺ったのも三成説、家康説で、双方ともに三成と家康が出てきます。三成説は外征批判分子の抹殺という観方で、家康説は徳川に対する「邪魔者は消せ」という観方です。

ともかく、氏郷がいなくなり、伊達と徳川が手を握る脅威を避けるために、上杉を大幅に加増して会津に配しました。これは三成にとっては痛手で、上杉の家老・直江山城の意見をことあるごとに聞いていたのです。アドバイザー…でしょうかね。その直江は、領国管理のために中央から不在がちになります。盟友の大谷刑部も癩病(らいびょう)が悪化して出勤しなくなりますから戦略面で弱くなります。

戦略、戦術、戦法・・・遠、近、短・・・長期、中期、短期・・・常に三つの視点が必要で、目先の利益を追ってはならぬなどと教わりましたが、石田三成は、能吏なだけに長期的視野、政治的駆け引きは苦手だったようです。それをカバーしてくれていたのが上杉の直江山城であり、大谷刑部だったのかもしれません。

ともかく、上杉家は越後から会津への転勤で右往左往でした。越後は物なりの良い土地です。転勤拒否をする家臣が続出します。領土、税収は倍増しましたが、それを管理する人材が揃いません。蒲生家の主だった家臣は転勤先の宇都宮に去りますし、元からいた地侍もオイソレと上杉の言うことを聞きません。それやこれやでテンヤワンヤで中央のことなど構っておれません。

これは三成にとって、相当な痛手でした。

真田十勇士

真田幸村とそれを支える十勇士・・・と云う構図は、明治の立川文庫の描いた虚構ですが、前回、伏見城普請の人足の数から真田信繁の所領について「1万9千石」と推理しました。これだけの所領を持つ大名は、いったいどのくらいの規模の家臣団を持つのかを考えてみます。今回のドラマでは「佐助」が登場していますが、佐助は、あくまでも父昌幸の家臣・出浦昌相の手の者として描かれています。が、これが猿飛佐助の原型でしょう。

真田昌幸は情報通です。かなりな人数の情報要員を抱えていたとみるべきでしょう。真田物は池波正太郎にしても、司馬遼太郎にしても、数々の忍者が登場します。四阿山の修験僧、根津のノノウ(歩き巫女)などが主だったところですが、十勇士の中に三好青海入道、伊佐入道という兄弟が登場します。これが四阿山の修験僧系でしょうね。

根津甚八という十勇士もいます。これに海野六郎、望月六郎が加わって、真田のルーツである滋野一族の総てが揃います。以前に紹介した通り、滋野一族の枝分かれが根津、海野、望月で、その海野から昌幸の父・幸隆が独立したのが真田家です。いわば遠い親戚ですから、当然のように家臣団を形成していたのでしょう。

この時代のデータがなく、幕末の数字しかありませんが、近隣の1万5千石から2万石までの大名家の家臣の数を調べてみました。1,9万石とはどの程度のものでしょうか。

信州 飯田藩 1,7万石 160人   越後 与板藩 2万石   120人

々 小諸藩 1,5万石 160人   三河 拳母藩 2万石    90人

々 田野口藩1,6万石 130人   伊勢 神戸藩 1,5万石 260人

々 岩村田藩1,5万石 100人   丹波 綾瀬藩 1,9万石 160人

々 飯山藩 2万石   145人   近江 大溝藩 2万石   270人

結構ばらついていますが、エイヤ…とみて100人から150人の家臣団がいたのではないかと思われます。その家族や郎党を加えると、この10倍の数字になります。

つまり、信繁は150人規模の家臣を抱え、千人ほどの家臣の一族郎党を養っていたということになります。

この藩の顔ぶれを見て、平地の多い藩は比較的家臣が少なく、山間地は家臣が多いのではないか…と思いました。石高というのは米の収量です。平野があれば石高は多くなりますが、狭い谷間の山間地の段々畑、田毎の月では収量が落ちます。従って同じ石高でも面積が違ってきます。従って、それを管理する役人の数も増やさざるを得ないのでしょうね。

今週からまた暗夜行路・・・つまり、「あらすじ本」が無くなりました。頼りは先週の予告編だけです。今週は醍醐の花見から秀吉の死まででしょうか。

露と落ち 露と消えにしわが身かな 浪速のことは夢のまた夢

秀吉の辞世ですが、誰かの代筆だろうという観測が多いのですが、秀吉はかなりの歌道の達人です。今流行りの夏井先生的定義では「特待生」ないし「名人」的実力があったようで、それは秀吉の師匠であり、天皇の師匠でもある細川幽斎が、彼の日記の中で証明しています。

辞世としていつ作った歌かわかりませんが、醍醐の花見頃に作ったとすれば、全くボケてはいませんね。含蓄のある歌です。

(次号に続く)