六文銭記 23 小田原征伐

文聞亭笑一

名胡桃城事件をきっかけにして秀吉の小田原・北条征伐が始まります。

北条からは家康を介して幾度も釈明の要請が入りますが、秀吉は一切受け付けません。それはそうでしょう、この機会を待っていたか、それともでっち上げまでして先に手を出させたのですから、言い訳などを聞くはずがありません。ましてや、その言い訳が「上杉勢が入城してきたために起きた」などと意味不明のウソですから、秀吉の怒りに輪をかけます。

家康としては、秀吉に対抗するために北条を温存しておきたかったのですが、見え見えのウソがばれてしまっては手の打ちようがありません。

12月10日、北条討伐の軍議が開かれます。全国の大名に動員指令がかかります。

来春関東陣 ご軍役の事

一、五畿内 半役のこと

一、中四国は 四人役のこと

一、大阪から尾州にいたるは六人役たるべし

一、北国は六人半たるべし

一、駿遠三甲信の五か国は七人役たるべきこと

軍役右の通り、用意油断あるべからず。来春三月一日秀吉出陣せしむるものなり

動員された人数は20万人とも言われます。さらに物量作戦が展開されます。毛利、長宗我部、脇坂、九鬼などの水軍は、大阪から駿河の江尻港へ兵糧20万石の輸送を命じられます。さらに、小田原から相模灘にかけての海上封鎖を命ぜられます。上記軍令の半役とは総兵員の50%という意味で、6人は6割の意味になります。家康傘下の甲信駿遠三は7割動員ですね。総動員令に近いでしょう。

秀吉が北条攻めを仕掛けた目的は4つほどあったと思われます。

1、度重なる上洛要請に応じない北条を、朝廷への反逆者として討つ

2、家康の保険を奪い(徳北同盟の破棄)、家康を完全服従させる。

3、北条を討った勢いで、東北の反秀吉勢力・伊達正宗を討つ

4、子飼いの武将たちを大名に登用し、豊臣家の足元を固める

北条討伐は表向きの理由で、最大の狙いは「家康の完全屈服」だったと思います。

討伐軍の陣立て

秀吉の本隊、および関西以西の軍はすべて東海道を進み、家康の領国を通過する。

…これが、実は完全屈服の証です。領国内を自分以外の軍隊に通過させるということは、主権の放棄にほかなりません。しかも、10万を超える本隊を通過させるためには、軍用道路の整備、食料の提供、さらには自領内の城に秀吉軍を招くということですから、城の明け渡しと同じことです。岡崎、浜松、駿府など、家康が居城にしてきた城はすべて秀吉に提供されます。

さらに、家康にとって意外だったのは、自分の与力であった真田を自軍から外されたことでしょうね。

真田昌幸、信幸親子は北国軍の先鋒として総大将・前田利家、副将・上杉景勝の軍に編入されます。自分の部下を、断りもなしに、勝手に他人の部署に回されてしまったようなものです。信州の他の大名である小笠原、木曽、保科などは家康のもとに参陣しています。

さらに、家康にとっては屈辱的な陣立てが続きます。

箱根越えの主戦場、山中城攻めは、豊臣秀次が率いる秀吉旗本部隊が担当します。中村一氏、田中吉政、堀尾吉晴、山内一豊などです。この四人…奇しくもその後、東海道筋の大名になる面々です。中村が駿府、山内が掛川、堀尾が浜松、田中が岡崎と家康の重要拠点を奪ってしまう顔ぶれです。

しかし、さらに後の関が原戦では、この全員が家康方につきますから・・・面白いものです。

伊豆の韮山口は織田信雄が総大将で、その下に蜂須賀子六、福島正則が付きます。

家康は…御殿場経由の脇道攻めに回されます。

そして碓氷峠を越えて北から攻め込むのが前田、上杉を主力とする5万の北国軍です。このルートは最もおいしい部署です。北条の重要拠点が幾つもありますから、華々しい戦果を上げやすいのです。

主だったものを上げれば松井田城、鉢形城、川越城、八王子城などです。前田利家と上杉景勝に手柄を立てさせて、家康の対抗馬にしていこうという腹が透けて見えます。大軍なのに本隊の一部も中山道を使わないというのもそのためでしょう。

この布陣、家康に手柄を立てさせない…という意図が見えますね。眼前の北条との戦いよりも、その後の処遇への布石でしょうか。勝つのはわかっていますから、家康と織田信雄には手柄を立てさせないのです。むしろ、失敗させる方がよい…くらいに思っていたでしょう。

家康はそれを察知して慎重に行動しますが、織田信雄はまんまと秀吉の手に乗ります。

秀吉が織田信雄に腹心の蜂須賀と福島正則を付けたのは二人に芝居をさせるためです。韮山城を強攻するか、包囲してじっくり落とすかで、軍監同士に喧嘩をさせます。強攻派の福島、慎重派の蜂須賀、このどちらの意見をとるか…、一種の踏み絵ですね。信雄は蜂須賀の意見をとり、包囲網を敷いたまま動きませんでした。これが後に「あのような小城一つに手間取って…」と叱責を受けることになります。

ともかく、秀吉にとって小田原攻めとは、戦争というより政治の場でしたね。

              秀吉と大名の信頼関係を絵にすると…こんなものでしょうか

小田原攻めは徳川に北条との縁を切らせて、自陣営に引っ張り込む機会でもあります

小田原攻めの後、浅野、清正、正則、三成など秀吉家臣団が大大名となり、中心の赤枠が広がります。

伊達への脅し

大軍勢による堂々の進軍、鎧袖一触(がいしゅういっしょく)で北条をつぶして見せる…これはまた、伊達正宗への脅しでした。正宗は秀吉の総無事令が出た後も会津若松の葦名を攻め、占領しています。

「小田原を落としたら、次はお前の番だ」という示威行動を兼ね、常陸の佐竹、下野の佐野、宇都宮には小田原に参陣させず北に備えさせています。伊達討伐の先鋒部隊です。これにはさすがの伊達正宗も降参ですね。秀吉の陣に白装束で、磔柱を担いで、膝を屈するしかありません。

利休との対立

ちょっと先走りが過ぎるかもしれませんが、小田原陣で秀吉と利休の対立が鮮明になってきます。

千利休…秀吉政権にあって、政治的駆け引きでは副総理格の動きをしています。茶道という、趣味の世界に身を置きますが、その分だけ交際範囲が広く、人を見る目に長けていました。相手の建前ではなく、本音を嗅ぎ取る能力は抜群だったようです。

秀吉政権も、すでに軍事中心から民事へと移ってきています。家臣団で官僚派の石田三成が重用され、加藤、福島が脇に追いやられるのと同様に、黒田官兵衛などが遠ざけられ、利休が重用されます。

ところが、秀吉と利休では「この国の形」のイメージが違います。主だった対立点だけ比較します

基本政策  秀吉(推進者・石田三成) 千利休(豊臣秀長が支持)  
 政権構造  中央集権 官僚機構による統治  秀吉が絶対君主(信長スタイル)  連邦制 秀吉のもとで合議  五大老・五奉行など
 国際外交 、貿易  博多を窓口に中韓貿易重視  博多の島屋、神谷が提唱  堺を中心に南蛮貿易
 経済  管理経済 国策主導 経済利権は豊臣家が独占  自由経済  大名家の自主性重視
 人事  情実・気分次第  能力、実績判断
 宗教  天皇家を中核とする神道  キリスト教禁止 ある程度の自由を容認 禅的倫理  キリスト教は利用する 
 文化、芸術  黄金文化に代表される派手好き 茶碗は赤 絵画は狩野派  侘び、寂に代表される茶道文化  茶碗は黒 絵画は墨絵の日本画

        

小説などでは対立の原因を「茶碗の色など趣味の相違」「利休の娘を側室に所望」などと面白おかしく綴りますが、最大の相違点は経済政策、とりわけ貿易の利権をめぐる博多と堺の対立ではなかったでしょうか。利休は堺の商人たちの代表です。一方、秀吉の側近には同じ堺出身ながら、中韓貿易の利権を握りたい小西行長がいます。小西と対馬の宗義智が石田三成を仲間にして秀吉に働きかけます。

秀吉も九州征伐の折に、博多の神谷宗湛、島屋などの大接待攻勢に気分を良くしていますし、利権や金には貪欲な方ですから小西・石田の意見になびいていきます。米商いでも大阪の淀屋を贔屓にして、ドラマの水戸黄門に出てくるセリフを乱発していたようです。

「淀屋、おぬしも悪よのぅ」「そういう太閤様こそ…、ウッシシ」

大阪城に使いきれないほどの金銀をため込んだ秀吉ですからねぇ。ありそうな話です。

朝鮮出兵も…、建前は別として、真の原因は経済政策、貿易の利権だと思います。

ただ、秀吉も利休も「成長型経済」という点では一致しています。方法論の差ですね。

(次号に続く)