六文銭記 17 昌幸上洛

文聞亭笑一

家康を傘下に組み入れたことで、秀吉は天下統一に向けて自信を深めます。この頃の秀吉の版図は信長の時代を越えて、東は越後、信濃、甲斐、駿河を結ぶ線まで支配下に入りました。信長時代を越えて越後の上杉を臣従させています。西は、毛利を屈服させ、四国の長曾我部も支配下に収めました。残るは関東以北と九州だけです。

この辺りが、秀吉の人生の分岐点ですね。ここまでの秀吉と、この後の秀吉は違います。日吉丸、木下藤吉郎、羽柴秀吉と名乗っていた「サル」が、太閤殿下として人格が変わっていく転機でした。私などが子供の頃読んだ「日吉丸物語」はこの辺りまでの秀吉を描いています。天性の陽気さと、チャレンジ精神と、奇想天外な知恵と、そして人当たりの良さで理想的人間像ともいえる憧れの出世物語でした。竹中半兵衛、黒田官兵衛、蜂須賀小六などの良き先輩にも恵まれ、加藤清正、福島正則などの荒小姓を育て、石田三成、大谷吉嗣などの有能な経済官僚も育てました。

さらに、私生活でも寧々さんという世話女房の賢婦人を中心に、兄弟姉妹、母親と円満な「家」を作り上げてきました。まさに理想的な人生です。政治家、経済人として、更に一個の人間としても立派な人生の軌跡をたどっています。成功物語です。

しかしそれは長続きしません。束の間の春です。これは秀吉の場合だけに言えることではありません。現代に生きる我々にとっても、一つの教訓です。何かがきっかけで人生が狂いだすことがあります。その一つが環境変化です。環境はそのまま立ちどまっていてくれません。地震、雷、火事にテロ・・・突然の事件で人生航路は大波に揉まれます。

もう一つが慢心でしょうね。すべてが上手く行った過去が、そのまま続くと思い込んでしまい、過去の成功事例にこだわり始めます。過去の成功の中には「たまたま上手く行った」「運が良かった」ということが多々含まれています。そのことを忘れがちです。

常在戦場・・・ 平和、平穏というものは束の間の幻です。

熊本地震のセイでしょうね。少々現役時代の精神風土に戻っております。油断大敵と…。

関白太政大臣に就任した秀吉は全国の大名に向けて「総無事令」という命令を発します。

要するに「戦争禁止令」です。争い事は天皇の代理人である豊臣秀吉が裁決する。戦争という手段ではなく、秀吉の裁決に従え…という宣言です。専制君主宣言ですね。

そして、正親町天皇が退位し、後陽成天皇が即位した機会をとらえて、全国の大名に祝賀のための上洛を指示します。天皇を実に上手く使いましたねぇ。天皇には、実力はありませんが・・・この国の権威です。これに逆らうということは「俺は日本から独立する」と宣言するようなもので、自領の領民たちからの支持が得られません。天皇家の存在は、理屈ではなく信仰に近い常識、伝統文化、精神風土ですからね。

天皇家の祝い事…こういう建前では逆らうわけにはいきません。全国の大名は不承不承でも、参列せざるを得なくなりました。北条氏政とて、これは無視できませんから、代理を送ります。勿論、真田昌幸も同じことで、大阪へと向かいます。

ただ、無視した者が二人いました。東北の雄、伊達政宗と、九州の雄、島津義久です。

上洛するにあたって、昌幸の心の拠り所の一つは石田三成の存在でした。昌幸の正室・薫は京の公家である宇田頼忠の娘です。一方の石田三成の妻も宇田頼忠の娘、つまり姉妹です。従って昌幸と三成の二人は相婿、義兄弟の関係になります。

そういう意味で、秀吉が「真田は表裏卑怯の者、討伐せよ」などと叫んでも平然としていられたのでしょう。「三成が何とかしてくれる」という確信があったものと思われます。

昌幸は大阪へ入ると、先ずは石田三成の屋敷に入ります。手紙のやり取りはしていますが、初対面です。にもかかわらず、互いに打ち解けてしまうのは、性格的に似たところがあるからでしょうね。「馬が合う」という所でしょう。

さらに、昌幸と秀吉は初対面ではありません。

昌幸は武田信玄健在の頃、信玄の口利きで甲斐の名門・武藤家の養子になり、武藤喜兵衛と名乗っていました。その頃に、京から妻の薫を迎えました。信長の婚姻政策の一環です。その折に、薫を護衛して甲斐まで送り届けたのが木下藤吉郎、つまり秀吉でした。

秀吉との対面も、そういう昔話が出たようですね。秀吉が「真田昌幸」と呼ばず、「武藤喜兵衛」と呼んだという小説すらあります。この対面も、猿と狐の化かし合いのようなものだったでしょうが、取次(連絡相談役)に石田三成が指名されています。秀吉政権の官房長官のような三成が間に入りますから、政権中枢との結びつきはこれ以上ない固さになります。まぁ、豊臣政権・主流派の一員に加わったと言ったところでしょうか。

木曽義昌、小笠原長慶と共に「家康の与力大名」にされても甘んじて請けたのは、秀吉との距離感を「徳川より近い関係にある」と確信したからだと思います。むしろ、「家康の懐に入って内情を探れ」という指示と解釈したのかもしれません。

その一環でしょうか。長男の信幸を家康の臣下として浜松城にあいさつに出向かせています。すでに家康の臣下になっていた弟の信尹と二人、徳川に送り込んだことになります。

昌幸本人と、秀吉に人質に出した信繁は豊臣方ですから、関が原以前に両陣営に二人ずつ分かれています。「両雄並列せず」と読んでいたのかどうか…。したたかというか、どちらが優位になっても「真田は生き残る」という真田家の執念のようなものを感じます。

昌幸が大阪に入っての第一印象は「これだ。これにはかなわぬ」と漏らしたという大阪城の偉容でした。五層八階の天守閣は勿論、金箔をふんだんに使った建物の壮大さ、大石を据えた城門の豪華さ、堅固さ、更には城郭の広大さと配置の巧みさです。更に、惣堀(城下)の規模は膨大です。その上、五畿の守城として、和泉に中村一氏、奈良に筒井順慶、高槻に高山右近、茨木に中川秀政、伊丹に脇坂安治を配します。近畿一円を自分の庭のように都市計画していました。将に日本の首都です。

木造庁舎を5階建てのビルに立て直して、意気揚々と東京に出てきた田舎の町長が、東京都庁と新宿の高層ビル群を目にしたような驚きであったと思います。

「これには敵わぬ」と思ったのは、真田だけではなく、多くの田舎大名は同様の感覚だったでしょう。また、それが秀吉の狙いでもありました。

ただ、この城が、その後の秀吉を尊大で、我侭な後半生に曳きずり込んで行きます。

人、城を頼らば、城、人を捨てむ という格言がありますが、秀吉にとっても、その秀吉の近くにいる者にとっても、知らず知らずのうちに陥ってしまった罠です。格言にいうものは城や建物、財産だけではありませんね。才能も同じです。不断の見直しをして、メンテナンスを継続しないと罠にはまります。

さて、今回出てくるかどうか…真田家には子女の結婚話が次々と舞い込みます。上田合戦の勝利は、真田を一躍、全国区の地位に押し上げました。

まず動いたのは徳川家康です。秀吉の「総無事令」で単独行動での再戦が不可能となりましたから、婚姻政策での取り込みに方針転換します。狙ったのは、家康に臣従して来た長男の信幸です。父の昌幸と違って、実直・清廉な態度がおおいに気に入り、徳川四天王の一人本多忠勝の娘を養女にして、嫁入り話を仕掛けます。

本多忠勝の娘・小松姫・・・鎧を着て長刀を構えた姿しか絵に残っていませんが、文武兼備の美人だったようですね。忠勝が「男に生まれて来れば…」と呟いたほどだったと言いますから、かなりのスーパ・ウーマンだったのでしょう。

昌幸にとってはタナボタのような話です。人質をもらい受けるのと同然ですから、断る理由がありません。一方、この動きを警戒したのが石田三成です。真田の長男が徳川と親密になるということは、豊臣にとって不安材料です。

ならば…と、信繁に狙いを付けます。信繁に盟友・大谷吉嗣の娘を娶せ、豊臣への取り込みを狙います。これまた昌幸の思う壺で、実力者双方から高い評価を受け、人質同然の嫁をもらい、去就の自由度を確保することができます。これまた二つ返事ですね。

更にもう一つ、昌幸の娘・春姫が京の宇田頼忠の息子・頼次に嫁入りすることになりました。これにも石田三成が絡みます。宇田家は妻の薫の実家でもありますし、朝廷にも近いので縁はますます強固になります。後世「真田はいずれ天下を狙うことも考えていた」と言われる由縁の一つでもありました。池波正太郎本では「真田の京屋敷」という存在が良く登場しますが、宇田邸を含めて真田の京都での拠点になっていきます。

一度に三人の子供たちの嫁取り、嫁入りが決まりました。我が世の春・・・と云った感じでしょうか。5万石、あるか、ないかわからぬような小大名ながら、注目度は抜群に上がりました。昌幸の狙い通りです。

さらに、信繁を人質として大阪に残したことは、自分の青年時代の経験と重ねています。昌幸は人質として信玄から薫陶を受けました。信繁には同じく秀吉から薫陶を受けよということでしょう。豊臣も真田も、春爛漫です。

(次号に続く)